太平洋戦争末期、死を覚悟した訓練を受けながらも生き延びた人々は戦後どのように生き直したのだろうか。広島を拠点に取材を続けるジャーナリスト・佐田尾信作と、「戦中派」をテーマに執筆を続ける前田啓介が、陸戦隊・暁部隊の若者たちの知られざる記録をめぐって語り合う。一度は死を心に決めた人々が、その後の長い戦後をどんな思いで生き抜いたのか。アメリカ軍の軍歴とも比較しながら論じてもらった。
本対談は2026年3月2日「浜町読書倶楽部vol.15」にて実施。
「戦中派」の心理とは
前田 私は、祖母が広島県の江田島で育ったんです。また、昨年(2025)の1月には、戦艦大和の沈没から80年の節目ということもあり、大和の慰霊碑についての取材で呉にも行きましたし、広島という場所には勝手ながら非常に親しみを持っています。ですから今回、広島を拠点に取材を続けられている佐田尾さんと対談させていただくことになって、とても光栄で嬉しかったです。
佐田尾さんの新刊『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』では、太平洋戦争末期、海軍の「陸戦隊」と陸軍の「暁部隊」に所属し、原爆投下直後の広島で救援作業にあたった若者たちについて書かれています。私も読ませていただきましたが、本当にたくさんの関係者に取材をされていますよね。今は、個人情報などの関係で昔よりも人を探すのがはるかに大変になっている時代です。私自身も戦争に行かれた方やそのご家族に話を聞こうとしても、なかなか目当ての人にたどり着かないという経験をよくしています。
その中で、隊員当事者や遺族をはじめ関係者一人ひとりを根気強く取材されて、なおかつその後も広島や呉を案内するなど、深いお付き合いをされている。これは、取材相手と本当によい関係を築かれているからだろうなと感銘を受けました。特に、新聞記者は取材相手が多いせいか、取材後も相手と付き合いが続くということは難しいと思っていたので。
佐田尾 ありがとうございます。高名な司令官や参謀ではなく、誇るような戦果を挙げた人でもない人たちの存在が、「陸戦隊」「暁部隊」として歴史に刻まれることを願って書いた本です。
前田さんは1981年のお生まれということで、私とちょうど年齢が二回り違うんですよね。その前田さんが、『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)や『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』(集英社新書)と、「戦中派」をテーマにした本を書かれているのには、どんな思いがあるんでしょうか。
前田 ネット上でもよく「戦中派とは何か」みたいな議論を見るんですが、本の中でも書いたように、戦時中に生まれたら戦中派かといったらそんなことはないんですよね。私は、1917年生まれから1927年生まれまで、と定義しています。私の祖父は父方、母方とも1925年生まれ、そして『おかしゅうて〜』の主人公である映画監督・岡本喜八は1924年の生まれです。
「戦中派」の人たちはどういう思いを持って戦中を生きて、長い戦後をどんな思いで生き抜いたんだろう。そう考えたとき、祖父はもうふたりとも亡くなっていて話を聞くことはできないけれど、同じ時代を生きた人に会ったり、その人を直接知る人の話を聞いたりして、思いをたどることはできないかと考えて調べ始めたのが最初です。
佐田尾 『戦中派』では、『戦艦大和ノ最期』を書いた作家の吉田満が出てきますね。それと、やはり作家で『フーコン戦記』の著者の古山高麗雄。このふたりの、戦後の生き方──というか考え方そのものがすごく対照的で興味深いと思いました。
前田 吉田満は戦中派の心情を描き続けた有名な作家ですが、一方で東大を出て日銀に入ってそこでも相応に出世をしたという「エリート」でもあるんですよね。本人もエリートとしての自負はあって、それゆえに「自分は戦中派を代表してるんだ」という思いがどこかにあったような気がします。
対して古山高麗雄は、私は非常に好きな作家なんですが、今はそこまで有名ではないかもしれません。「戦中派が……」というよりは、自分がどう思うのか、個人としてどう感じたのかということのほうにこだわって書き続けた人です。
吉田は戦中派について語る時、「我々は」と書くけれど、古山は書かないんですね。それは「我々は」という言葉を使わないということではなく、戦中派の心情を代表して語らないという意味です。人はどう思うかも自由、自分がどう感じ、語るかも自由、そう考えていたように思います。戦前の学生生活や価値観も、戦後のものの考え方、書き方も、おっしゃるとおりまったく異なるふたりなんです。それを対比させながら書いていったというところはあります。
佐田尾 あと『おかしゅうて……』のほうで面白いなと思ったのが、岡本監督の作品『江分利満氏の優雅な生活』のところ。主人公の独白部分をかなり長く引用しているでしょう。1912年の神宮球場での学生野球の様子を思い浮かべて「あのエネルギーはどこへ行ったんだろう、あの学生たちはどこへ行っちまったんだろう」と嘆いた後、唐突に鬼気迫る「絶唱」が始まる。「白髪の老人は許さんぞ、美しい言葉で若者たちを誘惑した奴は許さんぞ」。そして「神宮球場の若者の半数は死んでしまった」……。これは、原作の小説にもある場面なんですよね。
前田 あります。
佐田尾 前田さんは、どういう意図でこの場面を取り上げたんですか。
前田 もちろん映画は原作小説とまったく同じというわけではないので、岡本監督が映画にするにあたってどの部分を選んで使ったかということが、とても面白いと思ったんですね。そして、原作者である山口瞳も、この映画については非常に満足していたといわれています。山口も戦中派ですから、その戦中派の心理というものを岡本監督がうまく汲み取ったんじゃないでしょうか。そうした、ふたりの意識の中の重なる部分を意識しながら書いたつもりです。
「自分は何のために死ぬのか」を考え続けた人たち
前田 佐田尾さんが取り上げられている、陸軍船舶部隊の「暁部隊」なんですが、以前映画『仁義なき戦い』の脚本を書いた笠原和夫だったと思うのですが、著書の中で、「暁部隊というのは上に対して従順じゃない、兵隊らしくない人間を集めた部隊だった」と書いているのを読んだ記憶があるんです。
今回、その本をもう一度探してみようとしてまだ探しきれていないんですが……。それで、先ほど話に出た『戦中派』の古山高麗雄の項に登場する、古山の親友の倉田博光という人がいるのですが、彼が実は暁部隊にいたそうなんですね。名門の家に生まれながらあちこちを転々として、満州に行ったりもしたような人なので、彼も「従順ではない」兵隊だったんだろうとは思います。佐田尾さん、そういう話は聞いたことはないですか。
佐田尾 うーん。本当のところは分からないですねえ。そもそも私が暁部隊について調べ始めたのは、「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の存在がとっかかりなんです。
第二次大戦末期、日本軍は下士官補充のために、まだ15〜20歳くらいの旧制中学在学中の生徒を一応は志願させるなどして「船舶特幹」をつくった。そして、彼らをまず香川県の小豆島に集めて訓練をさせた後、「マルレ」というモーターボートに爆雷を積んで敵艦に突入する水上特攻部隊に配属したわけです。おっしゃるような「従順ではない」兵隊は、その上官・教官だったということになりますけど、どうだったんでしょうね。
ともかく、取材していて感じたのは生と死が紙一重のところにあるということでした。というのは、この船舶特幹には1期生から4期生までいたんですが、1期生と2期生はほぼ同い年なんです。学年は同じで、ただ入隊・入営の日が半年違っただけなんですね。ところが、1期生はマルレに乗せられて、多くがフィリピンや沖縄で戦死しているのに対して、2期生は内地にいる間に終戦を迎えたため、ほとんど戦死者は出ていない。本当に、紙一重だったんだなと思います。
前田 佐田尾さんのお父様も大戦末期に「特別陸戦隊」に入隊され、「地雷や爆雷を抱えて戦車に突っ込む」訓練をされていたそうですが、それはつまり自分が「死ぬ」ための訓練ということですよね。お父様は息子である佐田尾さんから見て、そういう経験をされていると感じるようなところはありましたか。
佐田尾 いや、それはなかったですね。軍隊の話も「嫌な上官の飯にわざとフケを落としてやった」なんていう、軍隊生活を茶化すような話ばかりでした。ただそれは、父の場合は軍隊生活が短かったからということもあると思います。本に出てくる八杉康夫さんのような分隊下士官クラスの人になると、おそらくまた違ったでしょうね。特に八杉さんは戦艦大和の生き残りでもあって、壮絶な経験をされている。お話を聞いていても、それが戦後の生き方にも反映されているんじゃないかと感じることがよくありました。
前田 あの戦争は1945年8月15日にひとまず終わったわけですが、それまで人々はいつ戦争が終わるか分からないまま戦争と向き合っていたわけですよね。つまり、佐田尾さんのお父様のように「死ぬ」ための訓練をしていた人たちというのは、一度は「自分はもうこれで死ぬんだ、終わりなんだ」と心に決めていたはずだと思うんです。
おそらくは「自分は何のために死ぬんだろう」「いかに死ぬべきか」ということまで考えたでしょう。その人たちが戦後もう一度生き直さなくてはならなかったというのは、どれほどの困難だっただろうか、と思います。どうやって「生き直そう」と思い直したのか、それとももしかして思い直すことはできずに、「いかに死ぬか」という気持ちのまま生きていったのか……。そんなことを考えますね。

