疲れてしまった信盛
しかし、信長の言い分はまったく正しくない。
信盛は、桶狭間の戦いでは善照寺砦(名古屋市緑区)を守って今川勢二百を撃退したし、長篠の戦いでは織田軍の先鋒として鉄砲隊を率いて、武田軍の大敗に大きく貢献している。
さらに、信長が息子の信忠に岐阜城を与えたおり、信長は一時信盛の館に身を置くほど信頼していた。織田家中でも「退き佐久間」とうたわれ、信盛に退き(殿=退却戦で最後尾に位置して敵の追撃を阻止する部隊)を任せたら右に並ぶ者なしといわれた。
まさしく百戦錬磨の武将であり、織田家の宿老であった。愚将であろうはずがない。
なのに、折檻状の最後に信長は、「この上は、どこかの敵を平らげ汚名を返上するか、剃髪して高野山に上り赦しを乞うか」の選択を迫ったのである。
信盛はもう疲れてしまったのだろう、後者を選んだ。
こうして取るものも取りあえず、信盛は高野山へ上った。しかし、そこにも「居てはならぬ」という命令が出たので、紀伊の熊野(和歌山県)のほうへと、足の向くままさ迷い歩いた。
その間、譜代や家来たちにも見捨てられ、裸足で歩くなど、見るも哀れな姿となった。その後どうやら大和との十津川(奈良県吉野郡)に隠棲したらしいが、この地で失意の日々を送り、天正9年(1581)7月24日、湯治中に亡くなったという。
追放から一年もたっていなかった。信盛にとっては死刑に等しい仕打ちであった。
容赦なく捨てられた老臣
佐久間信盛父子に続いて筆頭家老の林秀貞も、25年近く前に造反したことを理由に織田信長から所領を奪われ、追放された。
石山本願寺が陥落して畿内が平定され、「狡兎死して走狗烹らる」の故事のごとく、利用価値のなくなった老臣たちは、容赦なく捨て去られたのである。
この過酷な処分の背景には、信長の政策の変更もあったようだ。ちょうどこの時期から、信長は一門衆や側近を畿内近国に配置し、柴田勝家、羽柴秀吉などを敵地に隣接する遠地に移封している。使える重臣は最前線で戦わせ、いらない重臣は切り捨てようとしたのかもしれない。
信長は天正10年(1582)3月に武田氏を滅亡させたが、伊勢(現在の三重県)の滝川一益も上野の厩橋城(前橋市)に入れている。そして2カ月後、明智光秀は秀吉の中国平定の援軍を命じられたが、このおり「中国地方はお前の切り取り次第(攻め取った土地を自身の領地にすること)なので、元の領地である丹波国(現在の京都府中部、兵庫県北東部)と近江国(現在の滋賀県)の一部は没収する」と、信長から伝えられたという説がある。
これが超合理主義者の信長のやり方であり、そのため、失領のショックを受けた光秀によって信長は謀殺されたのかもしれない。あくまで想像だが……。

