25歳で突然告げられた「子宮頸がん」。それまで仕事中心だった人生は、その一言で一変した。「人生にはリミットがある」と実感した彼女が書き換えたのは、“いつか”のやりたいことリストだった――。会社を辞め、三味線を手に渡ったオーストラリアで、路上演奏から『ゴット・タレント』ファイナリストへ。人生を動かした決断の裏側を聞いた。『世界へ飛び出た100人の日本人』(集英社インターナショナル)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
がん発覚後、更新した「やりたいことリスト」
プロフィール
オーストラリア〈2004年から居住〉
三味線奏者 Noriko Tadanoさん
1978年生まれ、女性、千葉県→アデレード
――オーストラリアに移住したきっかけを教えてください。
がんの診断ですね。もともと東京の電機メーカーで仕事漬けの日々を送っていたんですが、25歳のときになぜか「検診に行かなきゃ」という直感があって、子宮頸がん検査へ行ったんです。結果は「いますぐに手術した方がいい」というもの。
自分は健康そのものだと思っていた私にとって、あまりにも突然の知らせで、当時は「がん=死」というイメージが強く、「もしかしたら死んでしまうのかもしれない」と、恐怖で足がすくみました。結局、子宮は全摘せずに部分切除を選びましたが、そこで「人生にはリミットがある」と突きつけられました。
その瞬間に、私の中にあった「やりたいことリスト」の時期が「いつか」ではなく「いま」に切り替わったんです。そのやりたいことの一つが「海外で暮らしてみたい」でした。
――なるほど……! オーストラリアを選んだ理由とは?
以前、シドニー、アデレード、メルボルンを旅行したことがありました。とくにメルボルンの人々は明るくフレンドリーで、さまざまな人種が入り交じって生活していたんです。地震の少ない土地ならではのレンガ造りの建物や大きな大聖堂、街中を走るトラム(路面電車)も魅力的で、日本から来た私にとって心が躍るような異世界に感じました。そこで、まずオーストラリアにワーキングホリデーに行くことにしたんです。
三味線を担いでストリートへ
――ワーホリから移住に至った経緯とは?
まず、ワーホリ前に日本語教師になるための学校に通い、現地の学校で日本語学習アシスタントとして働き出しました。そこの生徒たちに文化交流の一環として日本の伝統音楽を聴いてほしいと思い、幼少期からやっていた津軽三味線を日本から持参したんですが、それがいまの活動と移住につながりました。
というのも、メルボルンはアートと音楽が盛んな街で、バスキング(ストリートパフォーマンス)が名物なんです。これは日本文化を伝えるいい機会だと思い、先生をしながら空き時間に三味線と歌でバスキングをはじめたんですが、これが楽しくて。
そのうち和太鼓奏者の方と一緒に学校を回ったり、本格的にお金をいただいて演奏するようになりました。結果的に、三味線奏者として活動を続けるために移住を決意しました。
――異国で女性一人でのバスキング、苦労はなかったですか?
最初はすこし怖さもありましたが、津軽三味線は音が大きいので、騒がしい路上でも存在感があって、道行く人も「この楽器はなに?」と興味を示してくれるんです。あと、寄付の文化とアーティストへのリスペクトが根づいているので、演奏中にはたくさんチップがもらえます。さらに、いろんな業界の人もバスキングを見るので、そこでラジオやテレビの誘いを受けたりして、「バスキングってすごい!」って思いましたね。
――バスキング中に、工夫していたことはありますか?
もちろん全員が立ち止まってくれるわけではないので、工夫はたくさんしました。たとえば、和装をしたり、曲の途中でテンポを変えたり。その駆け引きもバスキングの楽しさですね。

