
イギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で行われた研究によって、量子コンピュータとAIを組み合わせた新手法「QIML」が、カオス系の奥底に隠れた「秩序の核」をわずか300個足らずのパラメータで丸ごと取り出せることが示されました。
研究ではこの「秩序の核」をAIの”羅針盤”として組み込むと、最先端のAIモデルが軒並み破綻した長期予測で、唯一安定な結果を出すことに成功しています。
共同筆頭著者のXiao Xue氏は「量子コンピューティングを古典的な機械学習と有意義に統合し、複雑な動的システムに取り組めることを初めて実証しました」と述べています。
いったいなぜ、量子コンピュータはこれほど少ない道具でカオスの秩序を捉えられたのでしょうか?
研究内容の詳細は2026年4月17日に『Science Advances』にて発表されました。
目次
- カオスの底に沈む「秩序の核」
- なぜ量子コンピュータだと秩序の核を取り出せるのか
- 3つのカオスに挑む――「縞模様」「渦巻き」「ルールなしの乱流」
- カオスの底に何が見えたのか
- 専門家向けの補遺
カオスの底に沈む「秩序の核」

カオスの中に「秩序の核」がある。
そういうと多くの人が難解な話をイメージしますが、決して難しい話ではありません。
たとえば駅の階段を思い浮かべてください。
毎日何千人もの人が上り下りしますが、一人ひとりがどこに足を置くかは予測できません。
右端を歩く人も左端を歩く人もいるし、2段飛ばしの人もいます。
個々の人々の動きはカオスで予測は付きません。
でも10年後にその階段を見ると、特定の場所だけがすり減っています。
真ん中よりやや右寄りの、ちょうど足を置きやすい位置。
何千人もの「予測不能な足取り」が積み重なった結果、「ここが最もよく踏まれる場所だ」という安定したパターンが浮かび上がっているのです。
このすり減りパターンこそが、カオスにおける「秩序の核」に相当するものです。
個々の動きはバラバラでも、「全体としてどこにどのくらいの確率で滞在するか」という統計的な地図は、時間が経っても変わりません。
カオスの日本語訳が「混沌」であることから私たちはどうしても「カオス=何の法則性もないめちゃくちゃ」と思いがちです。
しかしカオスとめちゃくちゃ――つまり完全なランダムは根本的に異なります。
完全なランダムとは、過去の履歴も物理法則も一切関係なく、次に何が起きるかが本当にどこにも書かれていない状態を指します。
実はそんなものは、この宇宙にはほとんど存在しません。
人類の最先端の技術をもってしても、完璧なランダムを人工的に生成することすら未だに難しいほどです。
カオスはそうではありません。
一見でたらめに見えても、その裏にはちゃんと物理法則が流れています。
だから長い目で見れば必ず傾向が現れる。
天気で言えば、来週の気温はわかりませんが「8月の東京はだいたい30℃前後」という傾向は毎年安定しています。
サイコロだって、次に何が出るかはわからなくても、1万回振ればどの目もほぼ6分の1ずつ出るという「傾向」が見えてきます。
個々はバラバラなのに、全体を長い目で見ると安定したパターンが浮かび上がる。
それがカオスの神髄です。
数学ではこれを「不変測度」と呼びますが、ここではカオスの海の底に沈む「秩序の核」と呼ぶことにしましょう。
研究チームが見つけたかったのは、まさにこれでした。
では、この秩序の核をどうやって取り出すのか。
ここに量子コンピュータが登場します。
なぜ量子コンピュータだと秩序の核を取り出せるのか

― AIの限界
「予測なら単にAIにやらせればいいじゃないか?」
と思う人もいるでしょう。
確かにAIの進歩により、下手に人間が予測するよりAIのほうが正解率が高いという結果を、人間は受け入れるようになってきました。
天気予報も直近の予報ならば、AIは優れた精度を発揮します。
同様に他の種類のカオス問題でも、AIは短期の予測を得意としてきました。
しかし問題は、その結果を「次の出発点」にして、さらにその先を予測し……と何百回も繰り返す場面で起きます。
料理のレシピを伝言ゲームで回すようなもので、1回ごとに少しずつ歪み、10人目にはまったく別の料理になっている。
なぜそうなるかというと、従来のAIは「1歩先を当てること」に集中して訓練されるため、「この系が長期的にどんな統計パターンに従うか」という全体像を知らないのです。
先ほどの階段の例で言えば、「ある体重、ある年齢、ある歩き方をしている次の1人が、どこに足を置くか」を当てる練習ばかりしていて、「10年分のすり減りパターン」を見たことがない状態です。
UCLのピーター・コベニー教授はこう語っています。
「完全なシミュレーションには数週間かかり実用に間に合わない。かといってAIモデルでは長期の信頼性が低い。これが長年の課題でした」
今回の研究でも検証のために最先端のAIにカオス問題の長期的な予測を行わせましたが、結果は悲惨でした。
― 量子コンピュータの出番

そこで研究者たちが取り出したのは量子コンピューターでした。
なぜ普通のコンピュータではなく、量子コンピュータが必要だったのでしょうか。
まず、秩序の核(不変測度)がどんな形をしているかを理解する必要があります。
先ほどの階段のすり減りパターンには、実は厄介な性質があります。
「1段目の右端がよく踏まれると、なぜか3段目の左端もよく踏まれる」というような、離れた場所同士の不思議なつながりが無数にあるのです。
流体のカオスでも同じことが起きます。
ある場所の渦の動きが、遠く離れた別の場所の流れに影響を与える。
研究チームはこれを「量子もつれによく似た構造」と表現しています。
従来のAIは、こうした遠く離れた場所同士のつながりを学ぶとき、場所ごとの情報をひとつずつ拾い集めて、それらの間の関係を膨大なパラメータで1本ずつ記述しなければなりません。
東京と大阪の天気の相関、東京と福岡の相関、大阪と福岡の相関……と、すべてのペアを個別に書き出すようなものです。
これは極めて困難でした。
量子コンピュータは、未来を直接予測するわけではありません。
しかし、カオスデータの中に流れる隠れた統計パターンを「秩序の核」として取り出すことには長けていました。
つまり量子コンピュータ上の量子回路に、過去のカオスデータの統計パターンを繰り返し学習させると、その回路自体が「秩序の核」の圧縮表現に仕上がるのです。
イメージとしては、100時間分の交響曲を聴いて、そこに繰り返し現れるメロディの「骨格」だけを1枚の楽譜に凝縮するようなもの。
個々の演奏(=カオスの軌道)は毎回違いますが、底に流れる音楽的な構造(=不変測度)は共通しています。
量子回路はその構造だけを抜き出したのです。
結果として従来のAIでは10万以上ものパラメーターが必要なものも、量子回路はわずか15個の量子ビットとわずか300個程度のパラメーターで秩序の核を丸ごと捉えることができました。
同じ品質の表現を従来のコンピュータで再現しようとすると、パラメータ数が数百倍に膨れ上がり、それでも長期予測では量子版に及びませんでした。
しかし、なぜ量子コンピュータだとこの圧縮がうまくいくのでしょうか?
詳しいことはまだ不明ですが、研究者たちは秩序の核が持つ「遠く離れた場所同士が連動する構造」が、量子もつれの性質と相性がよかったからだと考えています。
量子コンピュータには「量子もつれ」という特技があります。
複数の量子ビットが、距離に関係なく互いに強く連動する性質です。
この性質のおかげで、量子コンピュータは「遠く離れた場所同士のつながり」を自然に、しかもコンパクトに表現できた可能性があるのです。
研究チームはこの量子コンピューターを使って導かれた圧縮された「秩序の核」を「Q-Prior」と名付けました。
Q-Priorの使い方はカーナビに似ています。AIの予測がカオスの秩序パターンからずれそうになると、「この系はそういう統計パターンにはならないよ」と軌道を修正してくれるのです。
しかも量子コンピュータを使うのはQ-Priorを作る最初の1回だけ。予測の段階では普通のコンピュータだけで動きます。
次はいよいよ、この量子AIによる「秩序の核」の実力を実証する実験を見ていきます。

