映画『ゴジラ-0.0』の予告編に登場した四発の大型飛行艇、二式大艇。すでにSNSでは「旧海軍の大艇じゃーん」「デカい」「艦これでもおなじみ」といった反応で盛り上がっちゃっているー……、が!
そんないま世間で盛り上がっている流れとは一切関係なく、この記事では、以前掲載した「これを読めば『ゴジラ-1.0』の背景が分かる 〜終戦時における旧海軍艦艇動向〜」と同様に、二式大艇(そして、その前機種である九七式大艇)のような大型飛行艇を日本海軍はなぜ必要としたのかという事情と、『0.0』で登場しそうな二式大艇以外の艦船と航空機を考察してみたい。
ライター:長浜和也
フリーランスライター。雑誌『世界の艦船』やボードウォーゲーム専門誌『BANZAIマガジン』、MONOist、ねとらぼなどで船舶関係の記事を執筆する傍ら、図上演習(ボードウォーゲーム)のデザインに携わる。
二式飛行艇(二式大艇)
二式大艇こと二式飛行艇は、1938年に川西航空機へ試作発注され、開戦後の1942年2月に制式化された。二式大艇は「長距離を飛べる飛行艇」という印象が強いが(それはそれで主要な目的)、それに加えて、遠距離攻撃が可能な打撃を担う航空戦力としても想定されていた。
その背景には、日本海軍が抱えていた二重の制約があった。その1つは、ワシントン海軍軍縮条約ならびにロンドン海軍軍縮条約による保有艦の不均衡だ。
日本海軍はこの時期、航空機を艦艇に対する有力な攻撃兵力として急速に認識し、中攻のような長距離攻撃機を日米の戦艦戦力差を縮めることを意識して発展させていった。日本海軍はミクロネシアの島嶼(とうしょ)に前線基地を設け、来攻する米艦隊を偵察・攻撃する構想を持っていたが、当時の日本における土木能力では、広大な海域に十分な航空基地を短期間で整備し続けることは難しかった。
この基地整備能力の不足を補う対策として必要になったのが、滑走路に縛られず、海そのものを発着の場にできる水上機、とりわけ大型飛行艇だった。二式大艇は「航空基地を必要としない索敵機」であるとともに、より正確には、基地整備の不足を水上機の運用で補おうとした「基地を使わない攻撃力」の到達点として開発された機体ともいえるだろう。
二式大艇を開発した川西航空機は、九七式大艇で長距離飛行艇の実用化に成功し、その後さらに高性能化を目指して二式大艇を開発した。九七式大艇は長大な航続力を持つ一方、防御力や高速性能では限界があった。二式大艇はそこを徹底的に補い、長距離性能を維持したまま、火力などの性能を引き上げた機体を目指した。実際、二式大艇の性能は当時の飛行艇としては破格で、全備重量32.5トンでありながら、航続距離3850浬、最高速度245ノットと、同時代の米国大型4発飛行艇「PB2Yコロナド」を大きく上回った(PBYカタリナは双発)。
初陣は1942年3月に実施された「K作戦」で、二式大艇2機は3月3日にマーシャル諸島ウォッゼ環礁を発し、翌4日にフレンチフリゲート礁で伊号第九潜水艦から補給を受けたのち、オアフ島上空へ進出した。戦闘詳報には「二一一〇眞珠湾奇襲ニ成功セリ」とあるが、戦果そのものは米側に大打撃を与えるには至らなかった。それでもこの作戦が意味するものは大きく、日本海軍は、空母を使わずとも長距離飛行艇と潜水艦補給を組み合わせれば、真珠湾に圧力をかけ続けることができると認識するようになった。
ただ、太平洋戦争を通して二式大艇は、地味ながら重要な索敵、哨戒、連絡、輸送支援といった役目を担い続ける。このあたりの具体的な内容は、二式大艇が配属された横浜海軍航空隊(後の第801海軍航空隊)や東港海軍航空隊(後の第802航空隊)の戦時日誌や戦闘詳報で確認できる。
二式大艇は167機生産されたが、終戦時の残存機はわずか4機にすぎない。そんな二式大艇が予告編に出てきた以上、次に気になるのは「ほかにどんな旧海軍兵器が出るのか」だろう。
なお、“超私的”に重視したいのは、「単に有名で関心の高い艦や機体」ではなく、終戦時に残っていたか、そして、その後の戦後処理まで含めて1949年前後の世界に持ち込めるかで絞ることだ。公式告知で『ゴジラ-0.0』は『ゴジラ-1.0』の死闘から2年後、1949年前後とみるのが妥当といえる。

