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全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

14歳で全日本選手権を制し、その後6連覇という快挙を達成。北京・ロンドンオリンピック日本代表としても活躍し、日本女子体操界を牽引してきた鶴見虹子さん。

華々しい経歴の裏には、過酷な練習環境や度重なる怪我、そしてセカンドキャリアでの現実に直面し、「体操をやってきたことを後悔してしまった」と語る過去がありました。

その後は知識・経験・人脈もない中で起業へ挑戦。廃業もよぎる崖っぷちの状況も乗り越え、黒字化させました。現在は都内にある3つの体操教室で生徒を抱えながら、「体操×アイドル」という新たな事業にも取り組んでいます。

鶴見さんの歩みから、自分らしくはたらくためのヒントを伺いました。

努力せざるを得ない環境とやる気に頼らない目標で日本代表へ

──体操を本格的に始めた経緯を教えてください。

5歳のころ、姉が先に体操教室に通っていたことをきっかけに、体操を始めました。小学2年生のころに行ったスポーツクラブで、その後の恩師となる中国のコーチと出会って、指導を受けるようになりました。

しばらく経ってから、コーチから「頑張ればオリンピックに行けるけど、どうする?」と言われて。年齢がまだ幼かったこともあり、よく分からないまま「うん」と答えたことがきっかけで、オリンピックを目指すようになりました。

──オリンピックを目指し始めてからは、かなり過酷な環境で練習をしていたそうですね。

全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

小学6年生から強豪クラブチームに所属し、学校が終わってからは夜22時、23時くらいまで毎日練習をしていました。

高校からは通信制の学校に通い始めたことで、より練習中心の毎日に。午前から午後まで練習漬けの日々を送っていました。携帯を持つことも禁止されていて、体重制限もかなり厳しかったです。

──周りの遊んでいる子たちが羨ましくなったり、めげそうになったりしたことはありませんでしたか?

チームの方針で、周りの遊んでいる子とはできるだけ関わらないようにしていたんです。なので、必要以上に周りを羨むことはありませんでした。

私が所属していたクラブは、海外コーチの在籍や施設も非常に整っている環境だったので、厳しいルールの中でも迷うことなく集中し続けることができました。

──選手時代には、どれだけ恵まれた環境にいてもやる気が出なかったり、気持ちが落ち込んだりすることもあったと思います。モチベーションを保つために工夫していたことがあれば教えてください。

ロシアや中国の体操選手に強いあこがれを抱いていたので、YouTubeなどで彼らの動きを繰り返し見てモチベーションを高めていました。ロールモデルを決めて目にするだけで、やる気が出ない日でも、練習の質が大きく変わるんですよ。

あとはリビングの壁に目標を書いた紙を貼って、いつも目標が目に入るようにしていましたね。

人は誰でもやる気がなくなったり、楽なほうに流れたりするものです。だから、自分の夢は信じても、自分の気分や、やる気はあてにしません。「やる気がなくなったときどうするか」を考えるようにしていました。

──目標は、どのように立てていたのでしょうか。

毎年、月ごとの目標を決めていました。体操の大会があるタイミングに合わせて、そのために何を達成するのかを考える。試合がある月は「〜位までに入る」「優勝する」など、1年分の目標を書き出していました。

さらに、週単位でも自分の頭の中で目標を立てながら取り組んでいました。最初は無謀な目標を立てすぎて達成できないこともありましたが、続けるうちに自分の実力に合った目標の立て方が分かってきて。「これならギリギリ達成できそう」という目標を積み重ねていくことで、達成感が自信につながっていくんですよね。

「体操やらなきゃよかった」セカンドキャリアの壁も

──努力を重ねた結果、全日本選手権6連覇という快挙を果たし、北京・ロンドンオリンピックで日本代表として出場するなど、数々の華々しい実績を残されました。一方で、競技人生の後半には何度も怪我を経験し、苦しい時期もあったのではないかと思います。

引退のきっかけとなったアキレス腱の怪我をしたときは、正直「ようやく休める」という気持ちが大きかったです。体操というスポーツに怪我はつきもので、怪我をするたびに「これで少し休める」と安堵していたくらい、当時の私には練習が過酷だったんです。父やコーチたちが悲しんでいる中、自分だけ内心ほっとしていました。

当時22歳で、体操女子が若い選手が中心の競技であることや、小さいころから自分を律して過酷な練習を続けてきたこともあってだと思います。

アキレス腱の手術をした翌日には、コーチに「辞めます」と伝えていました。

──引退してから、すぐに起業を考え動き出したのでしょうか?

全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

いえ。引退するまで、起業は考えていませんでした。引退後は知人の紹介でベンチャー企業に就職して、体操教室の立ち上げを行いました。

ただ、就職先の収入面では厳しい現実がありました。「体操でオリンピックに出るより、勉強していい大学に行ったほうがよかったのかも」と思ってしまいましたね。

悔しいじゃないですか。 こんなに時間をかけてやってきたことを、「やらなきゃよかった」と自分で思ってしまうなんて、本当に悔しくて。「体操をやってきてよかったと思える人生にしたい」と考えたのが、起業のきっかけですね。

──そこで、体操教室の運営を考え始めたと?

全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

「体操教室がしたい」というより、「体操をきちんと収益が立てられる競技にしたい」と思ったのが先でした。

体操×アイドルでかけ合わせてエンタメ事業化できたらお金にもなるかもしれないし、世の中の人が、体操をやることに対してもっと夢が持てるようになるのではないかと思ったんです。

でも、アイドルを育てるとなると莫大な資金が必要になります。そこで今自分ができる仕事は何なのかを考えたときに、「まずは体操教室を作ろう」と思った流れですね。

体操教室をやるのであれば、自分が理想とするものを作って収益を上げていきたかったので、体操教室の立ち上げを学んだあとに、会社は退職しました。

──体操教室の起業に向けて、まずはどのように動いていきましたか?

学生時代まで体操一筋で生きてきた私は、「世の中のことを何も分かっていない」と感じていて、最初はいろんなアルバイトを経験しました。

飲食店でホール業務をしたり、国会で秘書のアシスタントをしたり。5年ほどアルバイトをしたのですが、最後のほうは夜のお店も経験しました。お金も必要だったし、経営をするなら経営者の方との人脈も必要だと考えていたからです。

全日本6連覇・五輪代表の元体操女王が“六本木の夜職”まで経験した理由。鶴見虹子「体操やらなきゃよかった」からの再出発

「夜のお店=六本木」というイメージがあって六本木へ面接を受けに行ったのですが、最初はまったく受からなくて。まだお客さんもついておらず、未経験で飛び込むにはハードルが高い状況でした。

そこで六本木を目指すために中野のスナックで1年ぐらいはたらいて、そのあとようやく六本木のお店に受かって1年半ほど勤務しました。

──「人脈を作る」という目標のために、地道にアルバイトを続けていらっしゃったんですね。

経営者交流会などに行く方法もありましたが、何度も会費を払うお金もなかったんです。

夜はたらく中で、実際に事業について助けてくださった方との出会いもあり、「あの2年半があって良かった」と心から思っています。

──アルバイト先で、経営について教えてくださる方と出会ったと他の記事で拝見しました。

はい。その方は私の頑張っている姿を見て「応援したい」と感じてくださったそうです。出会って間もないころに、経営について教えていただくことになりました。

特に、数字や提出物に関してはとても厳しく見られています。毎月の試算表の提出と、毎週の会員数や体験者数の報告を欠かさず続けています。

──経営については、ほかにはどのように学んでいきましたか?特に大変だったことも教えてください。

本などで体系的に学んだことはなく、とにかく人に聞きながら、実践を通して身につけてきました。

大変だったのは、開業当初の運転資金が100万円しかなかったことです。人件費などを考えるとかなりギリギリの状態で、生徒さんが入会しなければすぐに赤字になる状況でした。

「この100万円がなくなるようなら会社を畳むべきだ」と覚悟し、崖っぷちの状況で毎日ポスティングを続けました。そうして教室に通ってくださる方を増やすことに全力で取り組んだ結果、40人、60人と少しずつ入会申し込みが増え、半年で黒字化することができました。

現在は、3拠点で教室を展開しており、多くの生徒さんが通ってくれています。

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