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元ワーナー ブラザース ジャパン 映画部門代表 山田邦雄が語る (1)  日本映画界を驚愕させたワーナーの決断

元ワーナー ブラザース ジャパン 映画部門代表 山田邦雄が語る (1)  日本映画界を驚愕させたワーナーの決断

2025年9月18日、日本国内の映画界に激震が走った。東宝が、2026年1月より、同社の子会社で洋画配給を手がける東宝東和、東和ピクチャーズを通して、米ワーナー・ブラザースのすべての洋画作品の劇場配給を行うと発表したのだ。ワーナー ブラザース ジャパンの劇場配給部門は事実上の解体となり、現在のメンバーは東宝東和へとその業務を引き継ぐという。これによってワーナー・ブラザースの日本支社における洋画の劇場配給事業の100年の歴史は、幕を閉じることとなった。

予告編制作会社バカ・ザ・バッカ代表の池ノ辺直子が映画大好きな業界の人たちと語り合う『映画は愛よ!』。今回は、元ワーナー ブラザース ジャパン上席執行役員で映画部門代表バイスプレジデントの山田邦雄氏に、2025年12月31日をもって日本国内での劇場配給業務を終了した日本の組織のお話などを伺いました。

ワーナーの33年間に続くまっすぐな道

池ノ辺 まず、山田さんの経歴をお聞かせください。

山田 僕は、中学校から横浜のインターナショナルスクールに通っていました。1984年に卒業して、そのあと米国オレゴン州の西オレゴン州立大学、その後ポートランド州立大学を卒業しました。いずれも経済学で学位を取っています。そのままアメリカで就職しようと思っていました。

池ノ辺 どうして日本に戻ってきたんですか。

山田 実は父が栃木県の足利にある映画館を買ったんです、3館も。

池ノ辺 映画館を3館も!お父様は何をされている方だったんですか。

山田 父はずっとワーナー・ブラザースで営業の仕事をしていました。

池ノ辺 なぜ、そんな方が足利に映画館を?

山田 父としては、退職後に映画館経営をしたいという夢があったようです。仕事上で後継者のいない足利の映画館のオーナーと知り合い、譲り受けたようです。ところがその時、父はまだワーナーで働いていましたから、僕に白羽の矢が立った (笑)。

池ノ辺 映画はお好きだったんですよね。

山田 もちろん映画は大好きで、父と一緒に劇場に映画を観にいくという機会もたくさんありました。ただ、映画業界に行くとまでは思っていなくて‥‥。でも父が映画館を購入したことで、「お前、映画のビジネス、どうだ? 」と半ば強制的にそこへ行かされました (笑)。

池ノ辺 いつ頃のお話ですか。

山田 1990年頃ですかね。

池ノ辺 じゃあ、洋画がすごく面白い時代ですね。

山田 まさにそうです。『ボディガード』(1992) や『タイタニック』(1997) も劇場でかけました。洋画がとても勢いのあった時代に映画館の支配人を経験させていただきました。2年ほど働いた頃、父からワーナーに欠員が出ていると聞き、当時ワーナー エンターテイメント ジャパンの日本代表だったウィリアム・アイアトンさんとの面接と試験を受けて‥‥。それで93年、ワーナー ブラザース ジャパンに入社しましたが、当時、父が営業担当の常務取締役を務めていたため、私は大阪支社へ転勤することになりました。そこで西日本の営業を学び、当初は5年くらい大阪に行く予定でしたが、1年を過ぎた頃に父が病気になったため東京に戻ることになりました。その後は東京の宣伝部に配属されました。

『ボディーガード』© 1992 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

池ノ辺 え?東京では宣伝部だったんですか、それはいつ頃?

山田 95年頃ですね。今、松竹撮影所にいる関根慎吾さんがワーナー宣伝のマネージャーをされていて、僕はその下で宣伝・パブリシティを担当しました。でも当時、ワーナーはあまり強い洋画がなかったんです。『シティ・オブ・エンジェル』(1998) と、あとは『マディソン郡の橋』(1995) などがヒットとしてあったぐらいで。99年になってようやく『マトリックス』が公開され、その後、しばらくワーナーの強い時代が続きました。

池ノ辺 宣伝にはどれくらいいたんですか。

山田 2004年頃までいました。クリエイティブに2人、パブリシティに僕ともうひとり、さらにタイアップ、劇場担当くらいかな。

『マディソン郡の橋』© 2008 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

池ノ辺 宣伝プロデューサーはどなたが?

山田 関根さんと私で、基本的には宣伝代理店と一緒に組んで宣伝業務を回していくというやり方です。

池ノ辺 そのあと営業に戻ったんですか。

山田 はい。営業に戻り、そこから営業次長、営業部長を経験し、2015年頃に、バイスプレジデントのポジションを任せてもらいました。

池ノ辺 それで最終的には?

山田 2024年に、バイスプレジデント・上席執行役員・映画部門代表に就任しました。洋画・邦画含め、映画部門全体を見ることになりました。

ワーナーの“邦画” 戦略

池ノ辺 ワーナーというと、洋画のイメージですけど、邦画はどんな状況だったんですか。

山田 2000年の初め頃に、「トワーニ」という映画制作会社があったんです。東芝と日テレとワーナーの頭文字を取って「トワーニ」。そこで3本、邦画を作りました。『さくや 妖怪伝』(2000) 、『天使の牙 B.T.A』(2003) 、『キューティーハニー』(2004)。でも残念ながら数字はあまり良くなかったため、この先も邦画を続けていくべきなのか、迷っている時期でした。そんなタイミングで、2005年、日本テレビさんから『デスノート』(2006) の配給をお願いされました。

池ノ辺 製作は日本テレビですか?

山田 そうです。当時日テレの奥田誠治さん (現松竹株式会社エグゼクティブプロデューサー) が日本代表のアイアトンさんに企画を持ち込み、宣伝に関根さん、営業を私が担当しました。その作品が大ヒットとなり、2007年頃から本格的に邦画に取り組もうということで、チーム作りが始まったと理解しています。

池ノ辺 ワーナーはもともと、ワーナー・ブラザースが製作したものを日本支社で配給するというかたちでしたよね。それを邦画を本格的にやろうというのは、本社としてはどういう反応だったんですか。

山田 もちろん本社の指示があって動いていたましたし、トワーニの頃から「邦画も積極的にやっていけ」という指令はあったんだと思います。

池ノ辺 そうすると洋画の配給をしながら邦画もやるということですよね。ただでさえワーナーさんの洋画って規模が大きいわけですから、その両立は大変だったんじゃないですか。

山田 そうですね。邦画の配給や宣伝は洋画とはやり方がかなり違っていたので、そういう意味では非常に苦労も多かったと思います。ただ実際にやっていく中で、徐々にノウハウを学んでいった感じですね。それと、ワーナーの場合は、本社に邦画を担当するチームを作り、アメリカ式の映画制作について色々教えてもらいました。映画の作り方だけではなく、どう利益を出していくかなど、制作に必要なノウハウを学び、それを軸に我々は邦画戦略を立てながら制作を進めてきました。

池ノ辺 それは日本だけじゃないんですね。

山田 日本だけでなく、ヨーロッパを含むマーケットの規模が大きい国々に対しても積極的に自国映画制作を進めるよう取り組んでいました。

池ノ辺 それってハリウッドの映画の力が落ちてきたからということなんですか。

山田 というよりも、邦画にはまだまだ大きなビジネスチャンスがあると考えだったと思います。ですから、我々も中国映画の『HERO』(2002) 、『LOVERS』(2004) などの作品を買い付けたりしました。結果的にはそれも大ヒットしています。そのあたりも、当時の本社が先を読んで進めていったんじゃないかと思います。

配信元: otocoto

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