京都市の元夫が、別居中の妻が第三者の精子を夫のものと偽って体外受精を行い出産したとして、治療を担当した医療法人に1100万円の損害賠償を求めて提訴した。2026年6月3日、京都地裁で第1回口頭弁論が開かれたこの裁判は、不妊治療の現場では極めて異例とされる事態をめぐり、「医療機関の確認義務」と「夫婦の自己決定権」という重いテーマを突きつけている。
元夫と妻は2020年に第2子を望んで不妊治療を開始したが、2022年1月に別居し離婚協議へと進んだ。その後、妻は夫の署名を偽造した同意書を病院に提出し、凍結胚の移植を試みたが妊娠には至らなかった。
そこで妻はさらに同意書を偽造し、2022年8月以降、第三者の精子を“夫のもの”と偽って病院に追加提供。2023年8月に第2子を出産した。その後、2025年に夫婦の離婚は成立。当然ながら、元夫とこの第2子の間に生物学上の親子関係はない。
元夫が妊娠を知ったのは離婚協議の最中であり、妻はすでに男性の同意書を偽造・提出した有印私文書偽造・同行使罪で懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けている。刑事事件としてはすでに決着がついているにもかかわらず、元夫が病院を訴えたことで、問題は「個人の裏切り」から「医療機関の責任」へと軸を移し、より複雑な争点が浮かび上がっている。
元夫が病院を訴えた「自己決定権侵害」という核心
元夫が病院を訴えた最大の理由は、「子どもをもうけるかどうかの自己決定権が侵害された」という点にある。妻の偽装行為がなければ、第三者の精子で子どもが生まれることはなかったという主張だ。
元夫側は、病院が一度でも対面で同意を確認していれば、文書の偽造や第三者精子の持ち込みに気づけたはずだと訴えている。不妊治療は夫婦双方の意思確認が前提であり、生命の誕生に関わる重大な行為である以上、慎重な確認が必要だったという立場だ。
6月3日の閉廷後、取材に応じた元夫は「不妊治療は命の誕生に関わる大切な選択。妻だけでなく、夫にも同意を確認してもらえば防げた」と話し、男性の弁護士も「夫への意思確認をするべきだった」と病院側の過失を強調した。
病院側は「適切な対応」と全面否定 “性善説の医療”が抱える限界
一方で病院側は、元夫の請求棄却を求め全面的に否定している。答弁書では「精子が夫のものではないと疑う事情はなく、予見は不可能だった」と反論。取材に対し病院側は、「事実誤認に基づく訴訟で、対応が適切であったことを訴訟の中で明らかにする」とコメントし、徹底抗戦の構えを崩していない。
実際のところ、日本の不妊治療は患者の申告を前提とする“性善説”で運用されている。医療関係者からも「刑事罰を覚悟した虚偽申告や、巧妙に偽造された同意書を医療機関が見抜くのは現実的に困難」という声が上がっている。
日本産科婦人科学会の指針でも、治療ごとに夫婦の同意を求めることは示されているものの、夫への対面確認や本人確認を義務付ける明確な規定は存在しない。この“制度の穴”と、悪質な不正を見抜けなかった医療機関の責任をどこまで結びつけることができるかが、今回の裁判の大きなポイントとなる。
