18世紀のイギリス、貧しい鍛治職人の家に生まれたアンは信仰心の厚い女性として育つ。4人の子供を授かるも、全てを幼くして失うという悲痛な体験の中、自らが“キリストの女性の姿の生まれ変わり”である、という確信的な啓示を得る。彼女の、性別、人種の平等を説く生き方は多くの人々を惹きつけていくのだったが、反感や警戒を感じる勢力から苛烈な迫害を受けていく。
わずか8人の信徒とともにアメリカに渡り、性別、人種の平等信仰をもとにした理想の生活を実現するユートピアを求めるのだったが、そこでも大いなる困難が待ち構えていたのだったーー。
映画『アン・リー/はじまりの物語』は、この物語の色彩、深み、質感、時代の雰囲気を考えればフィルムで撮影するのが最もふさわしいとして、デジタル全盛の時代の中、あえて35ミリフィルムを用いて撮影されている。物語の舞台となる18世紀の「時代背景を体感させたい」というモナ・ファストヴォールド監督の希望通り、フィルムに焼き付けて撮影された本作の映像は、まるで絵画の世界に迷い込んだかのように幻想的で、観る者を18世紀当時へとタイムトラベルさせてくれる圧倒的なパワーを生み出している。
そして、本作品の日本での公開にあたり、特別に、109シネマズプレミアム新宿、立川シネマシティ、八丁座の3劇場限定で、6/5(金)より35ミリフィルム版が同時上映中だ。その際、字幕加工を任されたのが、日本で唯一フィルムへの字幕制作を請け負う(株)日本シネアーツ社である。
予告編制作会社バカ・ザ・バッカ代表の池ノ辺直子が映画大好きな業界の人たちと語り合う『映画は愛よ!』、今回は、(株)日本シネアーツ社を訪ね、現在では年に一度あるかないかという貴重なフィルムの字幕制作の現場で、制作営業部マネージャーの斎藤誠さん、制作部の仁村祝子さん、早川 亨さんに仕事のこと、映画への思いなどを伺いました。
「18世紀の世界をスクリーンに」という監督のこだわりから生まれたフィルム
池ノ辺 映画『アン・リー/はじまりの物語』は、モナ・ファストヴォールド監督たちのこだわりで、フィルムで撮影されたと話題になっています。そのフィルムに字幕スーパーを入れる作業ができるのが、今や日本では(株)日本シネアーツ社さんだけなんですよね。
斎藤 そうですね。
池ノ辺 シネアーツさんは、創業は何年ですか。
斎藤 昭和26年、1951年ですね。もう75年になります。
池ノ辺 昔は洋画は全部プリントで来て、それに字幕を入れていましたよね。
斎藤 私がこの会社に入る前までは、それこそ24時間体制で、フィルム1本1本に字幕を入れていたと聞きました。間に合わなければ他社さんにも協力してもらったり。
池ノ辺 私たちは字幕スーパーを入れることを「パチ」とか、その確認をする初号試写を「パチ初号」と言ったりしているんですけど、そもそもパチってどういう意味なんですか。
仁村 今、ここでやっている字幕加工は、レーザーで焼き付けるレーザー方式というものなんですけど、その前は手打ち用のハンコを作って、それをプリントに1コマ1コマ打っていたんです。
池ノ辺 職人さんが手で打っていたんですか。
早川 そこは機械です。ハンコの板、銅板を入れて、ミシンのように、流れていくフィルムの上にパチパチ1コマずつ打っていく。
仁村 それをタイプするようにパチンパチンと打っていくので、パチだと思っていました。
池ノ辺 パチという呼び方はたぶん日本だけですよね。
斎藤 タイプで打ったものかレーザーで打ったものかは別として、そこで打ち込んだものだという認識で「パチ」と言われているんだと思います。
池ノ辺 そういう時代を経て今はデジタル上映、いわゆるDCP (Digital Cinema Package) ですものね。ここで、プリントに字幕を入れる作業は、年にどれくらいの数があるんですか?
仁村 1年に1回、あるかないかですね。
斎藤 DCPの字幕加工もプリントの字幕加工も、基本的なところは一緒です。つまり、DCPではデータへリストにある「イン・アウト (字幕の表示・非表示のタイミング) 」を入れていくという作業になります。ただ、プリントの場合は、フィルムに入れていくので一度焼いてしまうとやり直しがきかない。
池ノ辺 じゃあ、久しぶりのプリントの仕事だと思うと緊張されますよね。
斎藤 まず機械が動くかどうかというのが心配です (笑)。
仁村 あとはやはりデジタルと違って間違えられないという緊張感はあります。デジタルももちろん間違えないように作っていますけど、間違えたらデータ上で修正できる。でもプリントは物理的に削っていくものなので間違えられない。
早川 そうです。もしミスしてしまったら、改めてプリントを取り寄せてもらわなきゃいけない。DCPならデータ上で間違っていれば、そこでまた修正をかければいいですけど、実際焼いたものに対して修正するというのはもう不可能なことなので。
池ノ辺 それは大変‥‥。現在、シネアーツさんは、職人さんは何人くらいいらっしゃるんですか。
斎藤 社員としては10人くらいです。ただ、フィルムを扱えるとなるともうこの2人だけしかいないですね。
池ノ辺 そうなんですね。仁村さんはこのお仕事はどのくらいやってらっしゃるんですか。
仁村 30年くらいですね。
池ノ辺 じゃあ、フィルムから始まって、DCPになる今まで、ずっとフィルムもやってこられたんですね。
仁村 とにかく機械が壊れたら終わりだなって思いながら、やってきました (笑)。
早川 この間も久々にフィルムのお仕事だと思って電源を入れたら、すごい音がしましたからね。「ゴーッ! 」って。
斎藤 本当に老体に鞭打ったような悲鳴とも取れるような「キーッ! 」みたいな音ですよ (笑)。実際、本番のプリントが来ても、すぐにフィルムをこの機械に入れるわけにはいかなくて、事前にテストします。でもその時点ですでに機械自体が消耗しだすわけですから、果たして本編の最後までもってくれるか‥‥途中で止まらないだろうかと不安は常にあります。
池ノ辺 今回の『アン・リー』のプリントは、上映館3館分、つまり3セットが送られてきたわけですね。プリントに関しては、日本では焼けないのでアメリカやオーストラリアなどの比較的状態のいいユーズドのプリントをかき集めて送ってきていると聞いています。
早川 ユーズドだったんですか。でも1セットは「ニュー (新品)」がありましたよ。
池ノ辺 1巻分足りなくてその分だけ向こうで焼いたらしいです。ちなみに、アメリカでもフィルムでかけられるところは限られているらしいので、ほとんどはDCPということですね。あと、特別限定で70ミリのブローアップを先行で公開したそうです。
斎藤 35ミリで撮ってそれをわざわざ70ミリに ? ということは70ミリの映写機も残っているということですね。すごい。
池ノ辺 本作の脚本等で制作に関わっているブラディ・コーベット氏と本作のモナ・ファストヴォールド監督はご夫婦で、『ブルータリスト』(2024) を撮ったのがコーベット監督です。その時は70ミリで撮ったそうです。でも『アン・リー』は、静かな場面やミュージカルのシーンがある。70ミリだとカメラの機械音で撮影現場がうるさくなってしまうので35ミリにしたそうです。ただ、ディテールを見せたいので70ミリにブローアップしたそうなんです。ただ、本来意図した映像はフィルムで再現する映像でしょうから、大多数の上映がDCPでも、できればフィルムで観てほしいという希望が監督にはあったんでしょうね。
DCPの映像に慣れてしまうとフィルムって「ちょっと暗くて画がわかりづらい」と思ってしまう人もいると思うんですが、あの暗さがフィルムの良さでもあると思うんです。自然光とろうそくしかないあの時代の世界が表現できる。それに質感、奥行き、深みが全然違う、フィルムならではのものがありますよね。それは、デジタルでは表現できない。緊張感も含めて、現場の空気感も違う。何より間違っちゃいけないというプレッシャーもあるでしょうけど。
フィルムの字幕加工の流れ
池ノ辺 これが今回向こうから届いたフィルムですね。
早川 “「8巻1セット」もしくは「2箱(1箱4巻入り)が1セット”で、3セット。つまり3本分です。今、3本目が届いたところでその作業をしています。
池ノ辺 字幕加工、いわゆるパチ打ちの作業というのはどういった流れで行われるんですか。
仁村 まず、映像は作業用にビデオにします。今回は横長のスコープサイズのフィルムなんですが、それをビデオテープに録画する。
池ノ辺 テレシネ (ビデオ・デジタルデータ変換) した映像ですね。
仁村 一方で、字幕の原稿は、WordやExcelのテキストデータとしてもらいます。そのテキストデータとタイミング、フィート (尺) を合わせるという作業をまた別のパソコンで行います。
池ノ辺 フィートを合わせるというのは?
仁村 例えば、フィートの頭、06フィートから10フィートまでにこの字幕が入るというイン・アウトのリストがあって、それが実際の映像と合っているかどうかの確認がまず必要です。それができると、打ち込み用のデータができたということになって、次の工程に移ります。
池ノ辺 原稿を元に、セリフにあわせて日本語の字幕が、どこからどこまで出てくるのかを確認して、その位置をフィートに換算してこれをリストにする。そのあとは、このスーパーをビデオに仮に入れてみるということですか。
仁村 そうですね。そしてこの時に、たとえば字幕を置いたところのバックが白くて読みにくくなっていないかとか口元などにかかっていないかといったことをチェックして、もしそうなっていたら、右や左寄りに字幕をずらします。
斎藤 今回の『アン・リー』は、ディズニーさんから完成版の字幕データをいただいたので、そのタイムコードをこちらでフィートに変換して使いました。
早川 そして次の作業は、レーザーの打ち込みになります。
池ノ辺 打ち込みというのはどういうものですか。
早川 フィルムに直接、字幕の文字をレーザーで焼き込んでいくんです。1コマ1コマ。
池ノ辺 それって手作業じゃないですよね。
早川 もちろん機械です。ただ、焼き込む文字がものすごく小さいんですよ。
池ノ辺 この機械はいつごろから使っているんですか。
早川 本当に全盛期の頃から使っています。今はたまにしか動かさないので、電源を入れても動かないんじゃないかくらいの年代ものです。
池ノ辺 私は今、何かものすごいものを拝見している気がしています。このパソコンなんかWindows98だし。
仁村 実は、今使っている35ミリ用のソフトが、古いパソコンにしか対応していなくて‥‥新しいパソコンだと使えないんです。
池ノ辺 それでもまだ現役で動いているんですね。98ってことは30年近く前ってことですよね。しかも、3.5インチのフロッピーディスクも!
仁村 そうです。これにデータを保存して、レーザーの打ち込み機につなぎます。
池ノ辺 古いけれどこれがあるおかげで、フィルムに字幕の焼き込みができるんですね。
斎藤 この機械でレーザーを作って、ここからレーザー光を出します。これは直視しちゃダメです。そしてこのレーザーで、文字の載ったところをフィルムの表面だけに焼くんです。ベース面までうっすら焼いていきます。
池ノ辺 なぜうっすらなんですか。
斎藤 焼きすぎると穴が空いてしまいますから。できるだけ表面を、でも焼き切らないように。それで文字のところが白くなるわけです。
池ノ辺 なるほど。
斎藤 レーザーの機械がフィルムを回して字幕を焼き付けていくわけですが、字幕の入るところはゆっくり回して、字幕のないところは早回しになる構造になっています。それで、焼き付けただけの状態だとあまりくっきりとは見えないと思うんですが、このあとクリーニングをして、焼いたことで付着した煤を綺麗に除去します。
池ノ辺 そうすると文字がくっきりするわけですね。この機械はどこの製品ですか。
斎藤 レーザーはアメリカ製でシステムはフランスだったと思います。
池ノ辺 じゃあアメリカやフランスも同じように字幕加工をしていたということですか。
斎藤 アメリカ製のレーザーは元々は別の用途で作られたものですね。
池ノ辺 1巻終えるのにどれくらいの時間がかかるんですか。
仁村 もちろんその時のセリフの量によって違うので、1時間でできるものもあれば2時間かかるものもあります。今回の『アン・リー』は割とセリフが多く、ミュージカルなので歌いながらのセリフもありますから、ある程度時間がかかります。
池ノ辺 そうして字幕を入れた初号が出来上がるわけですね。
仁村 昔は、字幕を入れたものがそのまま1号品だったので、字幕のプリントはそこから字幕修正が結構出たんです。ですからそのままの形ではなかなか劇場には出ない。そのうち、VHSで仮ミックスという字幕を仮に入れたものが作れるようになって、それを配給会社さんにお渡しして確認してもらうということができるようになりました。
池ノ辺 そこでいろいろ修正してから本番の初号になったということですね。
仁村 そうです。それだと1号品をそのまま劇場さんに使っていただくということが増えました。
池ノ辺 確かに昔と今とでは初号の重みが違いますね。昔の初号は劇場には回せなかったですよね。
仁村 そうなんです。翻訳の方が試写で観て「これじゃ読みきれない」とか結構直しがありました。でもそれは今でもありますね。仮ミックスは配給会社さんだけでなく翻訳の方にも観ていただくんですが、そこであの字幕はどうしようとか擦り合わせていくので、その分精度は高くなります。な感覚ですね。そうした人間の脳の不思議さということも含めて、この作品を作り上げる時の思いとしてありました。
