後手に回るナフサ由来石油製品の供給難、物価高対策への不満
一方、高市政権は打ち出す政策が遅すぎるという批判があがっている。
6月に入り中東情勢による物価高対応としてようやく補正予算を組んだが、野党は早くからその必要性を訴えてきた。今になって高市は、5月のGW前から政府に補正予算を検討するよう指示していたと言い出している。
それなどは、いかにも信じがたい。
小林は折しもこの頃に自民党として物価高対応などの提言をしたという。仮にそうだとすると、自民党のなかでも補正予算が議論されていたことになるのではないか。
「党と政府は違いますが、党としては大型連休の直前に政府に政策提言しました。その要望書には補正(予算の編成)こそ書いてないですけれど、中東情勢を踏まえ手を打つべきだというメニューを伝えています。
政府がそれをどう受け止めて実行していくかは、まさに総理を含めた政府の判断です。こちらの要望を受けて総理が具体的に何を言ったかについては申しあげられません。
ただ、数多くのボリュームある提言を受け取り、目を通されて『方向は同じだよね』というような発言はありました」
小林の発言を整理すると、自民党政調会長として中東情勢の対策メニューを示し、それを受けた首相の高市がその具体的な政策として補正予算を検討するよう政府の関係各所に指示を出したことになる。
本当にそんな事実があったのか、にわかには信じがたい。
食料品の大幅値上げにしろ、ナフサ由来の石油製品の枯渇にしろ、高市政権はあまりに対応が遅い。
おまけにようやく補正予算案が国会に出てきたか、と思ったら、具体的な予算の支出項目はなく、3.1兆円の補正予算の大半は政府が国会承認をえずに使える予備費なのである。国民の受け止め方は正反対で、政策がすべて後手に回っているようにしか受け取れない。
「後手かどうかは、国民、メディアの皆さん、それぞれ見方が異なるでしょう。しかし中東情勢がどう展開していくのか、いつ終わるのか、誰も確たることは言えない。
いろいろな展開が考えられるなか、高市総理は状況を見極めながら、ベストの選択をしていると思います。国のリーダーとして発言のインパクトは大きいので、そこは誰より考えられています。
たとえば石油製品の目詰まりについて党内には、もっと国民に寄り添う形で危機感のあるメッセージを強く打ち出したほうがいい、という意見もあります。
しかし私たちは政権与党なので、必要以上に危機感を煽る結果となってしまったら、逆に目詰まりを悪化させることになりかねない。したがってそこは慎重にならざるをえません。総理が補正をいつ決断されたかについては総理にしかわからないですけれど、総理自身はいろいろなシナリオを考えて国会審議に臨んでおられます」
少なくとも国民にはそうとは映っていないのではないか。
高市政権では、中東情勢についての見解が甘く、本当に深刻にとらえているかどうか。なにより国民が先行きの不安を抱いているのではないか。そう聞くと小林は目をむいて反論する。
「総理も複雑な中東情勢を重々承知の上で、政策を実行しています。真剣に考えていますよ、間違いなく。大型連休期間だって、政府の関係ラインの方たちは休み返上で寝る時間を削りながら、国民生活を守るために動いているわけです。
政権は結果に対してすべての責任を負わなければいけないけれど、国民の皆さんが日々の不安を感じておられるのは事実なので、そこに120パーセントの力を尽くすという以外にありません」
残念ながら小林の口からは、高市政権の危うさを払しょくできるような話は聞けなかった。
中東対応やネガキャン動画問題で野党に国会で追及され、右往左往する高市早苗の姿には、一国のリーダーとしての重みを感じない軽佻浮薄な発言が繰り返されている。
自民党総裁はいつからこうなったのか。ジャパン・イズ・バックを標榜する高市が心酔する安倍晋三もまた、過去の自民党総裁に比べると政治家としての奥行きを感じなかった。
リクルート事件以降、政治権力の地図が塗り替えられ、自民党の立ち位置が大きく変わった。永田町の予想に反し、運が開いて首相に昇り詰めた自民党議員も少なくない。
リクルート事件が変えた自民党
かつて小泉純一郎には「変人宰相」という異名があった。山崎拓、加藤紘一のYKKの三番手と見られ、首相に昇り詰めるとは思われていなかった。
だが「自民党をぶっ壊す」というワンフレーズが国民受けし、長期政権を築いた。変人宰相の誕生はそれまで自民党を支えてきた族議員を中心とする利権構造の崩壊を意味すると同時に、ポピュリズム政治の始まりでもあったといえる。
1989年1月の平成の幕開けとともに、東京地検特捜部がリクルート事件捜査に本格着手し、竹下登政権を追い詰めた。ポスト竹下の一番手と目されていた安倍晋太郎をはじめ、宮澤喜一や渡辺美智雄といった派閥の領袖クラスも事件の関与が取り沙汰される。
そこで中曽根の側近だった宇野宗佑が後継内閣を託された。宇野は中曽根政権で通産大臣、竹下政権で外務大臣を歴任し、ピンチヒッターとしてはうってつけだったとされる。89年6月、中曽根派のナンバー2として自民党総裁に就き、そのまま首相の椅子に座った。
ところが、ほどなく元神楽坂芸者による告発記事が世に出る。毎日新聞の『サンデー毎日』6月18日号で報じた『宇野新首相の「醜聞」スクープ 「月三〇万円」で買われたOLの告発』がそれだ。
この年の7月におこなわれた参議院選挙敗北の引責が表向きの首相の辞任理由だが、実際は不倫記事がときの首相を追い込んだ。タイトルにあるとおり当時、芸者時代に宇野に誘われて関係をもったというOLがサンデー毎日に告発し、「3本指で失脚」と騒がれたものである。
ここからピンチヒッター内閣が続く。宇野の後継首相になったのが海部俊樹だった。三木派、河本派と小派閥に所属してきた海部を首相に据えたのが、自民党最大派閥を率いる竹下だといわれる。
事実、海部は党内基盤が脆弱で、竹下派の顔色をうかがわざるをえなかった。竹下にとって海部は早大雄弁会の後輩にあたる。
もっとも別の動きもあった。
竹下派内には早くからプリンスと呼ばれた橋本龍太郎がいた。田中角栄の秘蔵っ子である小沢一郎にとっての強力なライバルだ。互いに将来の首相候補とされ、実際、派内の勢力は竹下に近い橋本グループと金丸信が可愛がっている小沢グループに色分けされた。
竹下派七奉行と呼ばれた派内の実力者でいえば、橋本グループは筆頭格の橋本をはじめ梶山静六や小渕恵三、金丸グループは小沢のほか羽田孜、渡部恒三、奥田敬和といった顔ぶれがいた。
橋本と小沢という自民党最大派閥の跡目争いは「一龍戦争」と称され、1990年代の日本政治を彩った。海部政権の誕生もそのなかの出来事だといえる。
宇野のあとに誰を推すか。そこで竹下派はいったんプリンスの橋本でまとまろうとする。そこには中曽根の意向が働いたフシもある。橋本は中曽根の進めた三公社五現業の民営化という行政改革において、運輸大臣を拝命し国鉄の分割・民営化を成し遂げる。
その後の宇野政権で自民党幹事長に就き、首相の座を目の前にしていた。宇野辞任後は梶山も橋本を推し、いっときは橋本首相の実現が固まったように見えた。
だが、そこへ女性スキャンダルが襲う。もともと愛人の噂が絶えない橋本は金丸から諭され、このときの首相就任をあきらめたとも伝えられる。
事実、90年に銀座のクラブホステスが自ら一夜妻だったと暴露したことまであったが、女性スキャンダルは対中外交でも影を落とした。
田中角栄が首相として中国と国交を回復し、竹下登が対中政策を引き継いだ。竹下派のプリンスと呼ばれた橋本はいわばそのラインに乗り、対中政策を進めたといえる。
厚生大臣経験者の厚生族議員として医療問題に精通し、中国から漢方薬の輸入などを進めた。日本国際貿易促進協会会長を務め、中国に対するODA事業にも取り組んだが、その一方でハニートラップ騒動も取り沙汰される。相手は訪中時に使ってきた中国語の女性通訳とされた。
女性スキャンダルは橋本が首相になったあとも尾を引き、国会で取り上げられたほどだ。心あたりのある橋本としたら、それらが金丸に伝わり、宇野の後継首相をあきらめざるをえなかったのかもしれない。この間、金丸が可愛がってきた小沢グループが巻き返し、竹下派内が海部首相擁立で一本化された。
こうしてわずか2カ月あまりの短命に終わった宇野政権に代わって1989年8月、海部政権が誕生する。太平洋戦争後の短命政権ランキングでいえば、終戦直後の東久邇宮稔彦内閣の54日を筆頭に、羽田孜内閣の64日、石橋湛山内閣の65日の順で、その次が69日の宇野宗佑内閣だ。
宇野政権がつぶれて海部政権を生んだこのときの一龍戦争は、いわば痛み分けといったところだろうか。橋本は海部内閣で大蔵大臣という重要閣僚ポストを得て次をうかがう地盤を固め、ライバルの小沢は政権ナンバー2である念願の自民党幹事長を射止めた。どちらも自らの政治基盤や勢力を温存している。
その海部政権は91年11月末まで続いた。先に書いたように、海部政権は89年7月の参議院選挙惨敗を受けて誕生したものだ。自民党はリクルート事件や消費税導入問題、3本指の醜聞がたたって大敗し、土井たか子委員長の率いる日本社会党が「マドンナ旋風」を起こして獲得議席数で自民党を逆転した。
このとき選挙責任者である幹事長が橋本であり、思わずチキショーと吐き捨てて悔しがる場面が何度もテレビ画面に流れた。橋本がいったん首相をあきらめたのは、参議院選挙の影響もあったに違いない。
その海部政権下、年が明けた90年2月の衆議院選挙では全512議席のうち、自民党が295議席から275議席と20議席減らして辛うじて安定多数を維持したものの、社会党は83議席から136議席となって53議席も上乗せした。ここまでは大きな自民党と小さな社会党という1対0.5の保革55年体制が続いていたといえる。
前に書いた90年9月の金丸訪朝はまさにこの頃の出来事であり、社会党の勢いはまさにここがピークだった。92年7月の参議院選挙では現有議席にとどまり、土井たか子のマドンナブームはあっけなく終焉を迎える。

