短命政権と政界再編の時代へ
そしていよいよここから政党勢力が溶解し、政界再編の幕が開く。現在にいたる新党ブームも、ここが始まりだと言っていい。主役は変わらず自民党を離党した小沢一郎と竹下派を束ねていた橋本龍太郎だ。
宮澤喜一政権下の93年7月の衆議院議員選挙で、全511議席のうち自民党は222議席から223議席とほぼ横ばいだったのに対し、社会党は134議席から70議席と半減する。
代わって大幅に議席を伸ばしたのが小沢の立ち上げた新生党(羽田党首)で、選挙前の36議席から55議席と1.5倍に躍進した。この一龍戦争では、いったん小沢に軍配が上がる。小沢が最初に政界再編を仕掛けたといっていい。
このときの総選挙で注目されたもう一人のキーパーソンが、熊本県知事だった細川護熙である。細川は日本新党を旗揚げし、衆院に鞍替えして初当選すると、非自民・非共産連立政権を標榜して8党会派をまとめ、内閣総理大臣に首班指名された。
8党会派の党首や成り立ちを改めて記すと、羽田の新生党、細川の日本新党、武村正義の新党さきがけ、村山富市の日本社会党、石田幸四郎の公明党、米沢隆の民社党に加え、江田五月や菅直人が社会党左派から枝分かれして立ち上げた社会民主連合、労働組合のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)をバックにした参議院院内会派の民主改革連合である。
日本新党や新生党は元自民党議員が多く保守色が強い。反面、そこへ左右の社会党が合流して一堂に会した。8党会派は文字どおりの寄せ集め議員がいっしょに政権を運営するという建付けだから、うまくいくはずがない。
バラバラの連立政権は「ガラス細工」と揶揄され、案の定、首相に就いた細川の佐川急便スキャンダルが浮上し、寄せ集め政権は1年足らずであっという間に瓦解した。
このとき小沢は社会党を切り捨て、自民党の渡辺美智雄に集団離党を促したが、その工作も失敗に終わる。細川のあとに新生党党首の羽田孜が94年4月に新内閣を発足させたが、羽田政権は宇野政権以下の64日という超短命に終わった。
と同時に小沢一郎の非自民政権の夢はここでいったん終わり、94年6月、自民を中心とする自社さの村山富市政権が誕生する。しょせんガラス細工政権では無理があったというほかない。このときは橋本が小沢に勝ったということであろう。だが、村山政権もまた似たような寄せ集めといえた。
ちなみに小沢の率いた新生党は巻き返しを図ろうとこの年の12月に公明党と合流し、新進党に衣替えする。新進党の設立は立憲民主と公明が合流した現在の中道改革連合とよく似ているといわれる。
新生、公明、民社といった政党が中心となって結成されたものの、主力である公明は一部しか合流しなかった。中道改革連合の結成時も、参院では立憲民主と公明が合流せず、いまだ調整中だ。当時の新進党でも同じように地方の公明組織などはそのまま残り、一枚岩にはなれなかった。
この新進党では、自民党を離党して自由改革連合を結成した海部俊樹が新生党の羽田や民社党委員長の米沢隆と競って党首となり、そこへかつて渡辺美智雄を担いだリベラルズの柿澤弘治、さらには現首相の高市早苗まで加わっていた。高市は初めからゴリゴリの保守ではなくリベラルだったという説はここから由来する。
高市早苗はなぜ保守になったのか
高市の国政初挑戦は参議院選挙だ。92年5月の参議院選挙で自民党公認争いに敗れて落選し、93年7月の衆議院議員選挙でも自民党公認に応募してきたが叶わず、奈良県全県区から無所属で出馬して初当選した。折しも政界再編の始まりの頃と重なる。
無所属で当選した高市は、細川政権の崩壊した94年4月に小沢一郎が渡辺美智雄に自民党からの集団離党を呼びかけた政策集団「リベラルズ」に加わった。
このときの首相首班指名で新生党の羽田に票を入れ、そのまま新進党に入ったのである。この頃の高市を知る実業家が打ち明ける。
「かつて世界救世教が金丸(信)さんを応援していて、私もそこに関係していました。その縁もあって田中角栄さんと面識をもちました。自民党と私との歴史は古く、そのあと中曽根康弘さんの頃にも付き合いがありましたけれど、民社党(元書記長)の中野寛成も応援してきたので、新進党の結成にも力を貸しました。新進党の結成時は海部さんが党首で、小沢さんが幹事長、中野さんが政策審議会長になった。
高市さんはまだ衆議院議員の1期生でしたけれど、新進党に飛び込んできた。それ以来の付き合いです。高市さんは極右みたいな印象で語られるけれど、民主との付き合いもあって本当は中道だと思っています。そこが出発点ですから」
もともとリベラルズは渡辺美智雄の側近だった柿澤弘治がリクルート事件や東京佐川急便事件を機に、政治とカネの決別を訴えて旗を揚げた自民党の政策グループだった。
細川が首相の退陣を表明した折、渡辺が小沢一郎による集団離党の誘いに乗り、そこに相乗りしたかっこうだ。結成当初のリベラルズのメンバーは柿澤のほか、太田誠一や新井将敬、佐藤静雄、山本拓で、自民党離党後に自由党をつくり、新進党に合流する。
ちなみに自由党という党名は、戦前戦後問わず小沢が新進党を改組したものを含め最近にいたるまで日本にいくつも存在してきたため、柿澤自由党と別称されることもある。
そしてこの自由党に米田建三、さらに高市が流れ込んだ。前述したように高市は参議院選挙に続き、初当選した93年の衆議院議員選挙のときも自民党公認を得られなかったが、細川政権誕生のときは自民党総裁の河野洋平に首班指名の票を投じている。
つまり自民党に未練もあったのだろうが、新しい潮流に乗ろうとしたのだろう。リベラルズ改め自由党に合流した。なお、リベラルズのメンバーだった山本は現在の高市の夫である。
リベラルズでは、肝心の渡辺が自民党総裁の河野洋平の慰留により、離党を断念して小沢の計画は宙に浮いた。結果、誕生したのが羽田政権であり、社会党が離脱したあとアテこんでいた自民党の大量脱藩はなかった。
しょせん長く続くはずもなかった。少数与党政権に転落した羽田政権は、自民党から提出された内閣不信任決議案の採決直前に退陣表明し、非自民政権は終焉を迎える。先に書いたように戦後二番目の短命政権だ。
そしてこの非自民政権に代わり、誕生したのが自社さの連立政権である。橋本や梶山、野中広務、亀井静香などがさきがけの武村らに声をかけ、社会党を引き入れたとされる。
自民党に残った渡辺は、社会党の村山に対する首班指名に抵抗し、中曽根も反対した。だが、すでにどちらも政界における求心力を失っていた。
政治とカネにクリーンなリベラルを謳った高市が強硬保守と呼ばれるようになったのはなぜか。理由については稿を改める。とどのつまり高市は単なる数合わせの勢力争いの流れに乗っただけなのであろう。ここから日本の政治そのものが迷走する。(敬称略)
取材・文/森功

