司法にたどり着けない人たち
谷口 ありがとうございます。私が弁護士になってから最初の10年は、本当に司法アクセスの問題というか、弁護士とか司法にたどり着けない人たちの問題をやっていたんです。
たとえば弁護士になって数か月で出会った人は、15年ぐらい借金から逃げ続けていた人で、もう自殺する手前で「ムダだと思うけど、法律相談に来た」と言っていました。
でも、調べてみると、その借金は10年以上前に時効になっていたんです。なので、ただ内容証明郵便を1本だけ送れば、実は10年間逃げ続ける生活はなかった。そういうケースだったんですね。この人はそれで借金苦から解放されて、見違えるようになったんですけれども。でも世の中には、そういう司法手続きにたどり着けないで死んでいった人たちも大勢いるわけです。
法律の勉強というのは、基本は法の解釈適用を学ぶわけです。「この法律はこういうときに適用される」とか。でも、その手前で多くの人たちが、ほとんど法にたどり着けないまま終わっていて、そこに圧倒的な不平等がある。法の手前に不平等があるということをすごく実感したんです。
公共訴訟も実は同じで、訴訟を起こすにしても全くお金がないし、どこにそれを受けてくれる弁護士がいるかも分からないし、という感じで、たとえば「夫婦別姓と、夫婦同姓、どっちが正しいのか」などという手前に、社会システム自身が排除している問題があるんだなと思ったので「そのハードルをどうにかして別のシステムによって解消しよう」というのがCALL4やLEDGEの試みなのかなと思っています。
名前というものの重要性
谷口 実際に、こういう本当に地を這うような弁護活動をしていたり公共訴訟をやっていたりする中で、「これはもしや先生が言っていた、あれじゃないか」みたいなことを思う場面が結構あります。ひとつは、先生が『<自由>の条件』という本を書かれていた時に、名前のことについて講義でお話されてたんです。「フレデリックとアルマン」というエピソードを題材に挙げて。当時は「ちょっとよく分からない話だな」と思っていたんですが、最近、LEDGEという団体で夫婦別姓訴訟に携わるようになって、「あ、これは」と感じるところがありました。
夫婦別姓訴訟は今これだけ主要な社会的トピックになっていて、去年の自民党総裁選でもひとつの大きな論点になりましたし、社会的には多くの人たちが「何で別姓じゃダメなの?」という発想になっていると思うんですが、裁判では2回負けているんです。最高裁で。
今、第3次夫婦別姓訴訟をやっているんですけど、第1次でも第2次でも敗訴した際の反対論には、ほぼ合理性がないんですよ。「合理性がないのに何で負けるんだろう」と考えたときに、やっぱり裁判官が「大したことじゃない」と思っていることがある。「名字が変わるということ自体、そんなに重要なことじゃない」と。
憲法13条(*3)の保障が及ばない、という判決文の中に、「名前というのは確かに重要です」とあって。氏というのは個人の識別機能にとって大切だ、他の人と自分を識別するのに、と。
「でも、まあそれぐらいのものだろう」というような感じで、重視していない。結局「失われているものが何なのか」ということが、十分に司法の判断に乗ってないと思ったんです。
でも、大澤先生がフレデリックとアルマンの話をしている時に、「名前というものは非常に謎めいた存在で、そこにとても大きな転換のキーがあるんだ」というお話をされていたと思います。
*3 憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれている。
大澤 そうですね。言語哲学では「名前とは何か」ということについて、けっこううるさい議論があって面白いんですよ、本当に。言語哲学というのは、オタクっぽいところがあって、「哲学者はそんなことを気にしてるけど、俺たちはどっちでもいい」みたいに思ったりもするんだけど、すごく議論としてエレガントで面白いんです。特に、人間にとってギリギリの問題を考えていった時に僕は、名前というのがすごく重要だ、と思うようになったんです。
名前って、すごく大きいんです。名前というものに対する違和感というのは、この世界における違和感の一番根源にあるんですよね。

