「古い友人のSくんから『ビバリーヒルズ銀座店の後輩で、今はシャツ工場の営業部長をしている男を紹介したい』と連絡をもらったのが、4,5年前のことでした。その『ドゥ・ワン・ソーイング』という社名は以前から業界で耳にしていましたが、藤井くん本人があの80年代、僕も営業として担当していた『JUN』運営の銀座ビバリーヒルズ出身と聞き、一気に親近感が湧いたのです。何度か展示会へ伺い、旨い日本酒を土産にいただきながら話し込むうち、彼の豊かな業歴に驚かされました。今では知る人も少なくなった関西のアパレル事情から泥臭いものづくりまでを網羅した強者。彼となら何か新しい面白い仕掛けができるのではないか。そう予感させる藤井くんの激動の半生を、今月は紹介させていただきます。」


職人業と機械業シャツの未来を縫い繋ぐ
日本におけるアメカジムーブメントの礎を築き上げたリビングレジェンドたちの貴重な証言を、Ptアルフレッド代表・本江さんのナビゲーションでお届けする連載企画。今回ご登場いただくのは、ドレスシャツの聖地・岡山に自社工場を構え、国内屈指の仕立てを支える「ドゥ・ワン・ソーイング」の取締役・藤井達也さん。
藤井さんのルーツは、東京・田町でテーラーを営んでいた祖父と父にある。1964年、東京都大田区池上に生まれた彼は、職人の背中を見て育った。池上本門寺の「お会式」の万灯が揺れ、太鼓の音が響く門前町で、幼い頃から当たり前のように重厚な英国生地やイタリア生地に触れ、高級生地の耳に付いたプラスチックの飾りをおもちゃにして遊んでいた記憶が鮮明に残っているという。
「当時はまだ“あつらえ”こそが正義という時代。サラブレッドなんて言われることもありますが、家業の厳しさも間近で見ていました。祖父や親父たちが3人で必死に針を動かしている姿は誇らしかったけれど、同時に既製品が怒涛の勢いで台頭してくる時代の変化も、子どもながらに肌で感じていたのです。父からは『これからは既製品の時代になる。お前はそっちを学べ』と、背中を押されるような、突き放されるような言葉をかけられたのを覚えていますね」。
高校卒業後、「これからは英語ぐらい喋れないといけない」と考え、横浜の専門学校で語学を学んだ。一度は電気部品の輸出入会社に内定したものの、卒業間際に運命が動く。学校に届いた求人票の中に、当時憧れていたブランド「JUN」の名前を見つけたのだ。
「直感でこれだ、と思いました。先生には内定を断る無理を言い、強引にファッション業界へと足を踏み入れました。普通のサラリーマンになるより、どうしても表現の世界、ものづくりの熱量がある場所に入りたかった。父が予見した“既製品の時代”の最前線に、自分を投じてみたかったのです」
大阪での「三型」修行の真髄
1980年代半ば、配属されたのは当時「JUN」の勢いを象徴していたアメトラブランド「ビバリーヒルズ」だった。熊本館の隣に位置した細長い自社ビルの3フロアを使い、一階がカジュアル、二階がテーラードという重厚な構成。そこは単なるショップではなく、アメトラの哲学を叩き込む学校のような場所だった。
「紋切り型のトラディショナルブランドでした。8月になれば、たとえ猛暑でも秋冬のツイードを着て店頭に立たなければならない。汗をかきながらも『お客さんを騙してでも季節を先取りするのがプロだ』という当時の教えや、村上さんという大先輩からの『そんな格好で店に立つんじゃねえよ』という、文字通りの叱咤激励は、今のぼくの血肉になっています。村上さんは本当に怖かった。でも、彼が見ているのは服の表面ではなく、着ている人間の覚悟だったんです。シャツの襟が少しでも曲がっていれば、接客をさせてもらえない。そんな環境で、ぼくは服と対話する基礎を学びました」。
そこで販売の真髄を経験するうち、関心は流行の最前線から、その裏側にある構造へと移っていく。1年で「JUN」を離れ、大阪に本社を置くアパレルメーカー「コスマース」へ転籍。
「営業として入社しましたが、企画にも口を出していたら『大阪へ来て本格的に勉強しろ』と言われ、平成の幕開けと共に拠点を移しました。当時は一型(アメリカン)、二型(ブリティッシュ)の長所を掛け合わせた三型(インターナショナル)という表現が紳士服業界の共通言語でした。企画、営業、生産、さらには少人数のチームで納品作業まで何でもこなしました。会社が廃業するという浮き沈みも経験しましたが、そこで服が『製品』として世に出るまでの、綺麗事だけではない、泥臭いプロセスを徹底的に叩き込まれたのです」。