脱走兵と化学式
半世紀以上も前の事実を掘り起こしたくて、私は、佐藤に取材を申し込んだ。
2022年6月8日、博多駅に近いホテルのロビーで、頭に辛子色のバンダナを巻いた佐藤と落ち合った。
佐藤はティーラウンジで私と向き合うなり、「中村哲の青春時代の話は、周囲に迷惑をかけるといけないので封印してきた」と言い、こう言葉を継いだ。
「中村哲は右翼でも左翼でもないんですよ。いっときの学生運動家のイメージで、哲ちゃんを支えるペシャワール会の運動を狭めたくもない。誤解されるのは避けたいです」
中村について語ろうか語るまいか、佐藤は逡巡していた。私は自分の率直な思いを伝えた。
「人間、中村哲を書きたい。人は変わっていくものです。そこを書きたいんです」
長い沈黙が流れて、佐藤が口を開いた。
「中村哲は世界史に残る大偉人です。彼が、2019年の12月にアフガニスタンで亡くなって、そう思うようになりました。彼は、天への階(きざはし)を上がって神人(しんじん)になったんです。だから……、言い残しておく必要があるのかもしれない。事実の断片を提供しましょう」
私は、取材ノートを開き、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「機体の引き降ろしをめぐる団体交渉は、狂ったような騒ぎのなかでおこなわれました。米軍はさっさと降ろせと大学に圧力をかけてくる。バリケードを機動隊が取り囲む。そんな状況で、哲ちゃんが平和を切々と説くのを聞き、滝沢先生(※克己 九大文学部教授だった哲学者)と僕らの感覚に近いと思い、深くつき合うようになったんです」
機体の引き降ろしに決着がつかないまま、1968年も年の瀬を迎える。
佐藤は、師と仰ぐ滝沢からとんでもない密命を受けた。
「米軍を脱走したアメリカ兵を極秘に名島寮で匿え」と命じられたのである。
滝沢は、かねてより親交のあった「ベ兵連(※ベトナムに平和を!市民連合)」のリーダー、鶴見俊輔(当時、同志社大学文学部社会学科教授)から、年末年始は来客が多くて脱走米兵をこちらで匿いきれないので、そっちで少し預かってもらえないだろうか、と打診され、引き受けていた。その実行を佐藤に指示したのである。佐藤がふり返る。
「68年末から69年の正月にかけて、脱走米兵の素性も明かされないまま、名島寮で匿いました。正直、釈然としませんでしたが、まぁ、最前線に送られる兵士も、アメリカの軍産複合体が仕掛ける戦争の犠牲者でもある、と割り切りましてね。ダンには、昼間は2階の部屋でカーテン閉めて寝ていろ、夜だけ1階のホールに下りていいぞ、と言い渡しました」
佐藤は、大学院の博士課程前期の修士論文の締め切りが2週間後に迫っており、ダンの世話をしていられなかった。そこで中村をダンの相手役につけた。
ダンには奇妙な癖があった。メモ用紙にしきりに化学式を書くのである。
「化学式を暗記していて、バーッと書くんですよ。哲ちゃんがダンの手もとをじっと覗き込んで、本人といろいろ話をしたあと、こう言ったんです。誠さん、こいつら米兵のほとんどが薬物中毒やなぁ。この化学式は、ぜんぶ薬物ばい。戦闘の怖さは酒で紛らわせられんけん、薬物に走るったい。前線ではそうやって戦ったんやろうねぇ、と言いました」
年が明けると、「ダンは京都に戻った」と佐藤は言う。
ダンとは、いったい何者だったのか。
私は、ネットを検索してベトナム戦争時の脱走米兵と接点のあった人物を探した。
元・京都市会議員の鈴木正穂が、自身のブログにポールという脱走米兵を「我が家の近くに下宿をさせてぼくが世話役みたいなもの……」と書いているのを発見した。鈴木はベ兵連の一員でもあった。
さっそく鈴木の連絡先に私は電話をした。何度かやりとりをしてダンの素性がかわる82ページの小冊子『脱走米兵ポールのこと Remember Paul』 (京都ベ兵連・1971年)を手に入れた。ダンこと、ダニエル・D・デニスは、京都ではポールと名乗っていた。
ベ兵連のメンバーは、小冊子にこう記す。
〈彼ら(脱走兵)の90パーセント近くが麻薬の経験者であること。その最初の経験が、戦場での負傷による痛み止め用のものであったとしても、野戦病院で常習者になる例が多い。
「おまえ一人の人生なんてどうにでも潰せるんだ」
ダンが名島寮を出て間もない69年1月5日午前2時ごろ、墜落した機体は、ブルドーザーを持ち込んだ土建会社の作業員と撤去に賛同する学生たちの手で引き降ろされた。
10月14日早朝、本部、医学部、教養部の前に約4400人の機動隊員が集結した。機動隊は学内に入り、バリケードのなかの学生を力ずくで連れ出す。九大では69年末までに公務執行妨害などの容疑で171人が逮捕(起訴・44人)された。
医学部自治会の委員、中村哲も警察に身柄を拘束されている。
母の秀子が口述した「ペシャワールへの道-7」(※北九州のタウン誌『ほっと&hot』所収)には、
〈推されて医学部自治委員をしていた哲は(箱崎の)福岡東警察署に逮捕された。浩然と前をゆく勉(哲の父)の後から秀子は痛む胸を押えながら燃える舗道を(福岡東警察署の)表玄関へと急いだ〉
と記されている。
中村は、生前、近親者や、心を許した者には逮捕、勾留された体験を話していた。
中村の長女の秋子は、こんなふうに「父から聞いた」と言う。
「取調官に、おまえ1人の人生なんてどうにでも潰せるんだ、と言われたよ。あんな言い方があるか。わたしは完全黙秘をしたが、最後まで戦うと言っていた連中が、捕まったとたん手のひらを返したようにいろいろ喋っとる。あれはいったいなんだろうねぇ」
中村は、勾留中「黙秘権を行使します」と言う以外は口を開かず、23日間を耐え抜き、不起訴処分になったようだ。
文/山岡淳一郎

