身体を乗っ取られる恐怖
物語の前半は、人々の身体をジャックして犯罪行為を繰り返す、姿の見えない何者かを追う一種の探偵物語だ。どこにいるのか、どうすれば倒せるのかがわからない敵を相手に、ピーターは悪戦苦闘を強いられる。
しかもピーターは遺伝子異常により、自らの意思とは無関係に、うまくウェブを発射することさえできない。ピーターの中で起きている異変と、彼の追いかけている事件には、ともに「何かに身体を乗っ取られる」という共通項がある。
姿の見えない黒幕は、ピーターに語りかける。「お前すらもピーター・パーカーを忘れてしまうぞ」と。すなわち、それはスパイダーマンがピーター・パーカーを乗っ取ってしまうことだ。
歳を重ねたピーターは、本当の意味で大人になれたのか。彼は成熟したのではなく、適切に成熟する方法を失っただけではないか。世界から己についての記憶を消し、以前の生活や大切な人を失った彼は、再びの喪失を恐れ、もはや新しい日常を求めていないかのようだ。自らの傷や未練を抑圧し、そのぶん人々を救うことに身を捧げているように見える。自分は仕事に没頭しているのだと口にしながら。
そもそも、スパイダーマンはスーツに身を包んだ正体不明のヒーローだ。それゆえ、スーパーヒーローとしての使命と、ピーター・パーカーとしての日常はつねにトレードオフになる。しかし、現在の彼はピーター・パーカーとしての人生を捨ててしまった。
本作はそうしたアイデンティティの危機を、肉体が変異する一種のボディホラーとして描き、「身体を乗っ取る」悪の脅威と結びつける。 思えば序盤から、ピーターはある人物のオフィスを訪れた際に、素顔を覆っているマスクを頑なに脱がず、ダメージ・コントロール局でも素性を明らかにせよと銃を向けられる。「スパイダーマンとは何者か」、つまり彼のアイデンティティがテーマであることは早くから示唆されているのだ。
孤独と自己制御の乱反射
スパイダーマンか、それともピーター・パーカーか。このテーマが前面に押し出されるほど、映画は前半の快活さから一転し、ほろ苦いトーンに変化していく。
かつて最愛の恋人だったMJと、かけがえのない親友だったネッドは、いまやピーターとの歴史を共有していない。一方、ふたりの過去をよく知るピーターは、以前の思いと親密さを一方的に持ち込むことができない。しかし、ひょんなことから昔の記憶を蘇らせるのではないか、どこかで自分のことを覚えているのではないかと期待してしまう。
ひとりのシーンでもピーターの孤独と責任、身体が変異する戸惑いをていねいに体現したホランドは、ゼンデイヤとの場面で、相手への愛情と期待、寂しさと切なさを身体いっぱいに宿す。かたや過去と切り離されたMJ役のゼンデイヤは、ゼロからピーターに出会う女性としての穏やかさと困惑、そして『ホームカミング』当時を思わせるひねくれぶりさえにじませた。
映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2022)より ©2021 CTMG. © & ™ 2021 MARVEL. All Rights Reserved.
映画のなかで唯一無二の輝きを帯びているのは、実はスーパーヒーロー・アクションより、ホランドとゼンデイヤの成長を感じさせる芝居かもしれない。ふたりがセリフを淡々と重ねる時間は、MCU版『スパイダーマン』が重ねてきた10年という時間を否応なく映し出すものだ。
また本作では、ピーターの葛藤が、複数のキャラクターに乱反射するよう設計されている。愛する者を失った孤独は、家族を殺害されたパニッシャーや、セイディー・シンク演じるジーン・グレイ――コミック『X-MEN』の登場人物で、現在準備されているMCU版『X-MEN』への布石とみられる――と重なり、自分の能力を制御する責任とそれゆえの孤独は、ハルク/ブルース・バナーにも通じているのだ。 大勢のキャラクターと複数の主題を抱え込んだプロットゆえ、やや要素が多いふしはあるが、彼らの抱える孤独や喪失、暴力、自己制御の問題が全編に充満していることが、この映画に独特のほの暗さと切迫感を与えている。
