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【大名リストラ地獄】秀吉の「お気に入り」で決まる非情な人事! 秀長が泣きつかれた戦国サラリーマンたちの左遷と冷遇

【大名リストラ地獄】秀吉の「お気に入り」で決まる非情な人事! 秀長が泣きつかれた戦国サラリーマンたちの左遷と冷遇

『豊臣兄弟!』のXより

「辞令です。来月から東北の福島勤務でお願いします」――。上司から突然の転勤を告げられ、頭が真っ白になった経験はないだろうか。

だが豊臣政権下の「辞令」は、現代の比ではなかった。逆らえば「お家取り潰し(改易)」、最悪は「切腹」。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(毎週日曜夜8時)が描く天下統一の裏側には、秀吉のひと声で運命が変わる「戦国サラリーマンたちの地獄の人事」が待ち受けていた。そしてその不満と嘆きを一手に引き受けていたのが、弟・豊臣秀長だったのだ。

「石高制」が生んだ大名の人事異動時代

豊臣政権が天下統一に向けて整備した「太閤検地」によって、全国の土地が石高という統一基準で数値化された。

これは単なる税制改革にとどまらない。石高が確定したことで、全国の大名を「年収○○万円の社員」と同じように管理し、配置換えが自由にできるシステムが誕生したのだ。

石高制の確立は全国の大名や家臣の管理をする上で最も革新的なシステムの導入であり、同一の石高を持つ土地の把握が可能となったことで、諸国大名の配置換え(移封)が行われるようになった。

こうして豊臣秀吉は大名を役人のように管理し、大名を通じて全国の土地を支配する新たな経済社会を築き上げた。大名が「サラリーマン」に転落した瞬間でもある。

しかしこの「人事権」は秀吉の胸三寸。功績より「お気に入り度」が物を言う、現代のブラック企業もかくやという評価基準だったのだ。

「国替え拒否」で即クビ——織田信雄の悲劇

最も分かりやすい「理不尽な人事」の事例が、1590年(天正18年)の織田信雄(信長の次男)の改易だ。

小田原征伐で信雄は戦功を挙げたが、戦後の論功行賞で秀吉は「徳川家康の旧領(三河・遠江など)に移封する」と告げた。信雄はこれを拒否した。

「尾張・伊勢は織田家伝来の地。これ以上の領地は必要ない」――という筋の通った理由だったが、この言動に豊臣秀吉は激怒し、ついに織田信雄は改易となってしまった。関東へ流罪となり、信長の息子が一夜にして無職になった。

現代の感覚でいえば「戦功を挙げた社員が、理不尽な転勤命令を断ったら即解雇」だ。見かねた家康が秀吉を説得し、2年後に信雄はなんとか御伽衆(お話し相手役)として復帰したが、それはもはや「平社員への降格」に等しかった。

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配信元: 週刊実話WEB

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