「任地で失敗したら即切腹」――佐々成政の末路
さらに苛烈なのが、佐々成政の末路だ。
成政は信長の旧臣で、九州征伐で功をあげて1587年(天正15年)に肥後一国(現在の熊本県)を与えられた。秀吉は赴任にあたって「3年間、検地禁止・現地の慣行を尊重せよ」と厳命した。
ところが成政は秀吉の国衆対策を無視して検地を急いだため、国人たちの強い反発を受け肥後国人一揆が勃発した。
結果はすさまじかった。翌1588年(天正16年)、佐々成政は謝罪のために大坂へ向かったが、秀吉はこれを拒否。安国寺恵瓊(えけい)が助命を願い出るも、聞き入れられず切腹させられた。辞世の句「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」――悶々と悩みぬいた末の最期だった。
「上司の指示通りにやらなかった部下の責任」とも言えるが、問題は「同じ時期に同じような検地を強行したにもかかわらず、他の領主は改易も切腹も免れた」という史実だ。処分の基準は「秀吉のお気に入りかどうか」に尽きた。
「左遷か、栄転か」——家康の関東移封という難問
その中でも最もグレーな人事が、1590年の徳川家康の関東移封だろう。
1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東に封じた。家康の本領は三河だったが、この頃には遠江・駿河・甲斐と領地を広げていた。秀吉は家康と家臣たちに、慣れ親しんだ土地を離れて遠い国に転勤するよう命じたことになる。
家康を本領から引き剥がして力を削ぐ「事実上の左遷」か、広大な関東を任せた「信頼の証」か――この解釈は今も歴史評論家らによって論争中だ。
しかし家康の家臣団にとっては、先祖伝来の土地を捨てて未開の関東に移る「強制転勤」以外の何物でもなかったはず。実際、この転封に不満を持つ旧臣たちへの対応に家康は長年苦しんだ。
