全国から集まった球児たちが頂点を目指して激突する夏の甲子園大会に、今なお誰も近づくことができない記録がある。1958年夏、徳島商のエース・板東英二さんが1大会で奪った83個の三振だ。タレントとして親しまれた顔の裏に、投手人生が隠れていたことは先日の訃報でも報じられたが、その壮絶さは今も球史に刻まれているのである(以下敬称略)。
【夏の甲子園不滅の記録⑥】を読む
「15三振未満なら走らされる」鬼の練習が生んだ怪腕
板東が甲子園で三振を量産し続けた背景には、徳島商・須本憲一監督の苛烈な指導があった。
「1試合15三振以上取らないと罰として一日中走らされた。0点で抑えるのは当然。練習試合だろうがなんだろうが、15三振未満なら走らされるから、ひたすら三振を取りに行っていた。その結果が83個なんです」
――後年、板東本人がこう振り返ったほどの環境が、怪腕を育てた。「台風が来ようが、インフルエンザで学校が休みになろうが、年中無休。毎日21時までは必ず練習、時には23時まで練習した」という修羅場を潜り抜けた右腕は、3年生の夏、高校野球ファンらをくぎ付けにした。
2試合で32奪三振――圧倒的な支配力
第40回全国高等学校野球選手権大会、2回戦(初戦)で秋田商(秋田)の石戸四六に投げ勝ち完封勝利、17奪三振を記録した。3回戦も八女(福岡)から15三振を奪い準々決勝に進出した。
わずか2試合で32個――対戦校はいずれも手も足も出なかった。投げれば三振、三振、また三振。板東の快速球を前に、打者たちはバットを振るだけで精一杯だった。しかしこの時点で、板東はすでに右肩に痛みを抱えていた。
