圧倒的な旅立ちを見せた料理家・舘野真知子の存在。「食卓を囲もう」に込めた、自分らしい生き方の追求

10日間、奇跡のような連日の“フェス”とは

ーそれは…びっくりされましたね。お医者様には、その時、書籍の制作中であることも相談されていたんですか?

小林さん 限られた時間の過ごし方を相談しながら、今作っている本の仕事をどうするのがいいかと相談しました。そしたらお医者さんが「ご本人がやりたい仕事であればさせてあげた方がいい」とはっきり言ってくれたんです。その先生は、これまでの訪問でまちの話をたくさん聞いてくれていたので、彼女が延命処置を望んでいないことや、最後まで自宅で過ごしたいと思っていた気持ちをとてもよく理解してくれていました。

「日中、長く寝ているのは、起きた時にいい仕事ができるよう体力を温存している証拠。もしも寝ている間にその仕事を取りやめにしたら、もう心が折れてしまうかもしれない」と言ってくれて。それで僕も心を決めて、編集の鈴木さんにもご理解いただき、制作を続けてもらったんです。

木戸さん そこからの10日間は本当にすごかったよね。

松本さん すごかったですねぇ。

ー何がすごかったんですか?

木戸さん こばちゃんは会社を長期休みして付き添い、松本さんもまっちが覚醒したタイミングでいつでも仕事ができるように泊まり込んで、新しい本をつくるというまっちの願いを叶えるために最大限、万全の体制でサポートしていました。

そこに、まっちのご家族もいらっしゃるし、訪問看護もお医者さまも来てくれたり、何と言ってもまっちの友人たちが入れ替わり立ち替わり出入りして、常に10人以上はこの家にいたと思います。ダイニングやキッチンに集まって、誰かが持ってきたり作ったりしたものをみんなで食べて、時々起き出したまっちが「みんなまだいる?誰が来てるの?」と加わることも。そういう時まっちは元気なときと変わらない抜群のユーモアで笑いを提供してくれていました。

ちょっと変な話なんですけど、あの場は連日とても楽しくて、みんなが常に大笑いしていたんです。たくさん泣いたけど、でも笑ってばかりいました。まさかご病気で伏せている人がいるお宅とは思えないほどで、まっちのことが大好きで大好きで仕方ない人たちが毎日集まった日々でした。

小林さん 本当、普通じゃ考えられないことだと思うんだけど、本当にみんなたくさん泣いて、それ以上に笑っていて、僕自身も、なんか楽しいなという感覚もありました。

松本さん 人が多すぎて玄関に靴が入りきらなくて、軒先に並べられていたくらいでしたよね。みんなの笑い声や話し声は寝室の先生にも聞こえていて、先生は目が覚めると必ず「みんなご飯食べた?」って言ってました。ご自分は食べることが難しくなっていたのに、みんなの食事を気にかけていたのが先生らしかったです。

葉山の自宅では家庭菜園も。新著にも、季節の手仕事を楽しんでいる様子がまとめられている。

木戸さん 松本さんはあの中でまっちのサポートしながら、本当によくがんばったよ。レシピの確認だけに限らず、まっちが仕事しやすいように素晴らしい動きをしていたと思う。

松本さん 書籍の撮影はもともと4月25日と26日に決まっていたんですよね。でも書籍に載る料理名はやっと揃ったものの、まだ詳細も聞けていないレシピがいくつかありました。こばさんが「まるで、セットリストだけあって歌詞もメロディもないライブみたいだ」と例えたのがおかしくて。それでいて家には毎日たくさんの人が来てるし「もうこれはフェスだな」って。先生も笑ってましたね。

あの頃先生は朝の4時前後に目が覚めることが多くて、結局、撮影当日の朝、2時間以上かけて材料や細かい手順を伝えてくれて、なんとか撮影は終えられました。ただ、細かい確認や修正ポイントを相談する必要があったので、その後もご自宅に泊まり込み、先生の起きるタイミングにお話をうかがっていたんです。

木戸さん まっち自身ほとんど食事はできない状態だったけど、それでも松本さんが調理を終えると、起き上がって味見したり、指示を出したり、写真のチェックもやってたもんね。訪問医の先生もその様子を見ながら、「本来ならもう何かを考えたり判断できる力はないはずなんだけど、なぜそれができているのか分からない」と言っていました。

松本さん 朝の4時前後は意識もはっきりして考えがまとまるみたいで、起きると私を呼ぶように言うんですよね。こっちがヘロヘロで起きていくと「私に聞くなら今がチャンス!」とか言うので毎朝笑わせられながら、確認したいことを質問していました。

スラスラ話せるわけではないのでゆっくりでしたが、やっと歌詞とメロディにあたる新著の全料理の詳細が揃い、私が「これでもう大丈夫です」と伝えると、先生は「よかった。じゃあ、お土産でもらったゼリー食べよう」って言ったんですよ(笑)。編集の鈴木さんの差し入れはいつも気が利いてるから、って。「全種類食べちゃおう」って一口ずつ全種類食べたり、ラ・フランスのことをわざと「このおフランスが好き」と言ったりして、こばさんと3人で大笑いしながら食べました。

はじめは丸型で茶色のお皿に盛り付けられていたこのお料理の写真を、白のオーバル皿に変更するように指示したというページ。病床ながら、なんとも冷静で的確なアドバイス。

(広告の後にも続きます)

味見、撮影、取材、原稿チェック。大好きな食をみんなに残す最後の大仕事

ーそれが4月26日ということは、5月1日未明に亡くなる本当に直前までこの本を作られていたんですね。

松本さん そうですね。この本の撮影は4月25、26日で終えた後、29日まで詳細を確認していました。27日には、管理栄養士を目指している人たちに向けたキャリアに関するインタビュー取材もあったんです。その日も朝4時半に起きて、(木戸)久美子さんが差し入れてくれたスイカを少し食べて、「11時に取材のアポですよ」と言ったら、その時ははっきり「はい、わかりました」と答えてくれました。取材は、同席した私が少しサポートはしたものの、最後までご自身で丁寧に答えていました。

担当のライターさんがすぐに書き上げてくれて、翌々日の4月29日には確認できる状態で届いたんです。その時、先生の親友が足をマッサージして、こばさんが先生の背中をさすっているときでしたが、原稿を確認したいと言うので、私は先生の手を握りながら音読しました。読み上げていると、ときどき先生が手をギュッと握る時があって、少しニュアンスを変えたい箇所などを教えてくれるんです。そこで「こういうこと?もしかしてこう変えたい?」と確認しながら、原稿チェックも先生にしてもらうことができました。

舘野さんの キャリアに関するインタビュー記事はウェブ掲載の他、リーフレットとしてご葬儀のご参列者に配られました。

久美子さん あの時、まっちが少しでも楽に大好きな仕事ができるようにって、こばちゃんも薬のコントロールやケアが素晴らしかったけど、松本さんも本当にすごかった。松本さんがいなかったら、最後のインタビューも、この本もできなかったと思うよ。

松本さん 皆さんそう言って、ありがとうと言ってくださるんですが、私は仕事があったおかげで先生のそばにいられたし、むしろ役得だったと思っています。訪問医の先生がこばさんに余命を説明される時も、「医療や化学では説明できないことがたくさんある」とお話しくださって、「今このタイミングでここにいるあなたも、真知子さんと特別に強い縁があると思うから、一緒に話を聞いてください」と言ってくれました。本当に、不思議なご縁を感じています。

ー本当に、本当に、最後の最後までお仕事をやりきって逝かれたんですね。

久美子さん まさにやりきった、という感じでした。完全燃焼。まっちは仕事が大好きだったから、本当に幸せだったと思います。

松本さん 本の画像チェックをしてもらってる時、先生に、辛くないですか?って質問してみたんです。どうしても無理に無理を重ねて対応してもらっていることが気になってしまって。そしたら「仕事をしてる時は痛みを考えずにいられるから」と言っていました。その時も、じゃあ仕事たくさん入れますね、なんて言って笑いあったりしたんですよ。

おいしいものへの感覚はずっと変わらなくて、本当に最後まで先生らしかったです。毎日たくさんの人が来て本当にたくさんいただきものがあったので「ご両親からのイチゴ食べますか?」とか「ジュースもありますよ」と聞くと、寝ながらあの笑顔で「いいねぇ〜」と答えてくれたりして。それは元気だった頃から変わらない、私と先生のやりとりでした。いつも打ち合わせなどで先生と会う度に、なに食べますか?〇〇もあるし△△もありますよ、といろいろ提案すると、食べたいものに「いいねぇ〜」ってにっこりしていたんです。

最後に口にされたものは、4月29日の朝、栃木のご実家から届いたイチゴ「とちおとめ」と、撮影で作った甘酒をジューサーで合わせたもの。

久美子さん あと4月27日はこばちゃんの誕生日でもあったので、みんなと一緒にお祝いもできたんですよ。いろんな人が持ってきてくれたケーキを、こばちゃんに出す前にどんなケーキか確認したりして、そんなところもまっちらしかったね。

松本さん あの時、人がたくさんいたので小さなコップでコーヒーを飲んでいたら「ちゃんとティーカップ使ってよ」って言われました。器は大事、って何度も言われましたね(笑)