「推す」ことが夢になる——『超かぐや姫!』の構造
この共通の前提を踏まえた上で、2作の大きな違いを見ていきます。
『超かぐや姫!』は、VTuberを「推す」という行為を経験したことのある若者にとって、「自分たちが観たかった物語」として機能している作品です。劇場の客層を見れば、それは明らかでした。10代後半から20代前半と思しき若者たちが、スクリーンの前で惜しみなく笑い、終盤では息を呑んでいる様子がうかがえました。
舞台として選ばれたのが、東京・立川とその周辺というのも象徴的です。世界は最初、恐ろしくローカルで狭い。しかし、その狭い現実空間から仮想空間「ツクヨミ」に進出することで、どこにいても「世界」と繋がれるという可能性が開けていく——この構造は、地価・物価の高騰によって、すっかり「選ばれし者」が住む土地となった東京から離れた地方都市にいながら、インターネットを通じてバーチャルなコミュニティに参加してきたデジタルネイティブ世代の経験と、ぴったり重なります。
そして本作において、「推す」という行為そのものが物語の駆動力になっています。プロデューサーとなった彩葉がライバーのかぐやに翻弄されながらも、発掘し、育て、バズを積み重ねていく過程は、現実のVTuber文化における推し活の構造とほぼ重なります。推しの成功が自分事になり、配信の数字が上がっていくことで、推した側の生活環境や自己認識までが変化していく——そういう経験を、この世代は身体で知っています。
だから、かぐやが「誰も幸せになってないじゃないですか、このバッドエンド!」とツッコミを入れる瞬間のカタルシスは、単なる爽快感ではありません。「推すことで物語は変えられる」——この世代が身体で知っているその感覚が、物語の形を借りてスクリーンに映し出された瞬間なのです。
筆者が最初に戸惑ったのは、まさにこの部分でした。推しているVTuberが成功していく過程に自分が関与し、その推した結果として自らが「本当にやりたかったこと」を見いだしていく——正直なところ自分はそういう経験をしてきませんでした。物語の「解像度」が上がらないまま観ていたのです。2回目に劇場で観たとき、ようやく観客の多くを占める若者の様子からその構造が腑に落ち、彩葉がかぐやの可能性を信じて動き続けるシーンの意味が、初めてちゃんと届いてきました。
「応援」の刹那性と、ほろ苦いカタルシス——『パリに咲くエトワール』の構造
一方、『パリに咲くエトワール』が劇場に呼び込んだのは、どちらかといえば映画好きの往年のアニメファン、あるいは谷口悟朗監督・吉田玲子脚本というスタッフ陣への信頼で足を運んだ層が中心だったように思います。そして、その客層の違いは、本作における「応援」の性格の違いをそのまま映し出しています。
そもそも本作の舞台は、20世紀初頭のパリです。異国に渡り、言語も文化も異なる環境の中で夢に向かう物語は、特定の国や世代に向けて設計されたものではなく、より普遍的な「人が夢を追う物語」として構想されています。その象徴が、キャラクター原案に近藤勝也氏を起用したことです。
スタジオジブリ作品を長年支えてきた近藤氏の絵柄は、かつてジブリ映画が見せてくれた「夢の質感」を本作に呼び込みました。結果として、その記憶を持つ往年のアニメファンや映画好きには深く刺さる一方で、作り手の意図とは別のところで、現代の若い世代との間にはある種の距離感が生まれることになりました。
それは時代背景の問題でもあります。本作の舞台はベル・エポック——19世紀末から第一次世界大戦開戦までの、パリが文化的に最も輝いた時期です。物語の終盤に向けて迫りくる戦争の影を読み取るには、この時代への一定の前提知識が求められます。
たとえば、千鶴の重要なメンターとなるロシア人バレリーナのオルガが、なぜ故国を離れてパリで暮らしているのか——そしてかつて戦火を交えた日本人とロシア人という関係性が、なぜパリという場所でかくも親密に結びつくのか。1904〜05年の日露戦争から1905年の第一次ロシア革命、そして帝政ロシアの崩壊(1917年)へと至る激動の歴史を知らなければ、彼女の沈黙や眼差しが帯びる重みは半減してしまいます。加えて谷口監督は、意図的に「セリフで全てを説明しない」演出を採用しており、脚本の吉田氏も「ふとした表情や、セリフがない部分でのキャラクターの芝居や動きで語る」作りを本作の特徴として挙げています。情報をセリフに頼らず映像と沈黙に託すこのスタイルは、映画の読解力を持つ観客にとっては豊かな体験をもたらす一方、そうした鑑賞経験が少ない若い層には物語の輪郭が掴みにくいという側面もあわせ持っています。
吉田氏の脚本が繊細に描くのは、「応援」の報われ方の歯切れを、意図的に悪くしていく物語です。
フジコや千鶴を取り巻く人々は、彼女たちの才能に気づき、きっかけを与えることはできても、成功を直接引き上げることはできません。日本もまた長い戦争の時代へと向かっていくことを思えば、千鶴がバレエで掴むものの輝きは、どこか刹那的なものにならざるを得ないことが観客には透けて見えます。フジコについても、エンドロールで紹介される彼女の作品群には戦争の暗い影が落ちていくことが示唆されており、夢を掴んだ先にも解消されない葛藤が最後まで残ります。
フジコのモデルとされる画家・藤田嗣治もまた、パリで名声を得ながら戦争に翻弄され、最終的に日本を離れてフランスに帰化した人物です。その史実を知る観客にとって、フジコの物語はさらに深い陰影を帯びます。同じく「誰かの夢を応援する物語」でありながら、『超かぐや姫!』のバッドエンドを笑いとともに書き換えるあの爽快なハッピーエンドとは、これほどまでに着地点が異なるのです。
そのほろ苦さの中で「それでも何かを掴んだ」という事実に、どこまで感情移入できるか——。それは、観客自身がどんな経験を積んできたかに、大きく依存していると思います。直接変えることのできない状況の中で、きっかけを渡すことしかできない、それでも関わり続けることを選ぶ——。大学で学生と向き合う教員でもある筆者にも、そういう記憶が少なからずあります。そうした記憶が呼び起こされたとき、本作のカタルシスはようやく全開になります。筆者が『パリに咲くエトワール』に素直に感情移入できたのは、おそらくそういうことでした。

