
イギリスのセント・アンドリュース大学(St Andrews)などの研究によって、世界最大のハイイロアザラシ繁殖地で40年にわたり原因不明だった赤ちゃんアザラシの大量死の「真犯人」が、同種の成体オスである可能性が高いと示されました。
この地域の赤ちゃんアザラシは口元から胸にかけて、まるでコルク抜きの螺旋のように皮膚を剥がされる、通称「コルク抜き状の傷」を負い死んでしまうことが知られていました。
これまではサメやボートのプロペラの仕業と考えられていましたが、実は同種のオスによる殺害が原因である可能性が浮上しました。
しかしなぜ彼らは、同じ種の赤ちゃんを襲うのでしょうか?
研究内容の詳細は2026年2月4日に『Marine Mammal Science』にて発表されました。
目次
- 砂浜に並ぶ、奇妙な傷の死体たち
- アザラシの赤ちゃんを襲う「コルク抜き殺人鬼」の正体
- 765頭——「氷山の一角」という恐ろしさ
- なぜオスたちは赤ちゃんを食べるのか?
- それでも、科学者たちは「手を出すな」と言う
砂浜に並ぶ、奇妙な傷の死体たち

誰が赤ちゃんアザラシを殺しているのか?
カナダの東海岸から沖へおよそ290キロ。
風と砂しかないような、全長およそ42キロの細長い島があります。
名前はセーブル島。
冬になると、この島では毎年およそ8万頭ものハイイロアザラシの赤ちゃんが生まれます。
世界中のどの繁殖地よりも、ここで生まれる数のほうが多いハイイロアザラシの世界最大の繁殖地です。
ところがこの島には、40年近くにわたって科学者たちを悩ませてきた「未解決事件」がありました。
繁殖期のたびに、大量の赤ちゃんアザラシの死体が見つかるのです。
しかも、その傷のつき方が、どう見ても普通ではありません。
口元のあたりから胸に向かって、ぐるりと螺旋を描くように深い裂傷が走っています。
骨が見えるほどの深さなのに、体のほかの部分にはほとんど傷がありません。
まるでワインのコルク栓を抜くときのように、くるくると「ねじり取られた」ような跡なのです。
あまりに奇妙なこの傷は、いつしか研究者たちのあいだで「コルク抜き状の傷」と呼ばれるようになりました(学術的にはコルクスクリュー〈corkscrew〉と呼ばれます)。
いったい何者が、赤ちゃんアザラシにこんな傷を残しているのか。
1980年代以来、研究者たちは犯人を追い続けてきました。
2つの容疑者、2つのアリバイ

最初に疑われたのは、グリーンランドザメでした。
北大西洋の深海に棲む、体長6メートルにもなる巨大ザメです。
動きはゆっくりですが、大型獲物に噛みついた際、体をひねって肉を切り取るのではないかと推測されていました。
それなら、あの螺旋の傷も説明できる——というわけです。
一見、もっともらしい説でした。
実際この仮説は2010年の論文に書かれ、長らく「有力な答え」として扱われてきました。
しかし、致命的な問題が一つありました。
40年間、このサメがアザラシの赤ちゃんを襲う瞬間を見た人が、誰一人いなかったのです。
しかも近年の研究では、グリーンランドザメには獲物を強い吸引力で口元へ吸い込む「掃除機型」の摂食も確認されています。
つまり「噛みついて体をひねる」という派手な襲撃そのものが、実はあまり確かな根拠を持っていなかったのです。
もう一つの有力な仮説は、ボートのダクト付きプロペラでした。
回転するスクリューを筒で囲んだタイプの推進装置で、その中にアザラシが吸い込まれて巻き込まれたのなら、傷が螺旋状になっても不思議ではありません。
確かに、形は似ています。
ただ、こちらにも無理がありました。
セーブル島の周囲は水深が浅く、大型船にとっては座礁の危険が常につきまとう難所として知られています。
離乳したばかりの赤ちゃんアザラシが、わざわざ沖まで泳ぎ出てスクリューに巻き込まれたというのも、シナリオとしてはかなり苦しい。
つまり、どちらの「容疑者」にも、しっかりとしたアリバイがあったのです。
事件は解決の糸口を失い、棚上げされたまま、年月だけが流れていきました。
その間も、毎年何百もの赤ちゃんが、同じ手口で死に続けていたのに、です。
アザラシの赤ちゃんを襲う「コルク抜き殺人鬼」の正体

偶然が、事件を動かした
2024年1月。
事件は、まったく予想外の場所から動き始めました。
英セント・アンドリュース大学の海洋生態学者イジー・ラングレーさんは、当時セーブル島にいました。
ただし、コルク抜き事件を調べるために来たわけではありません。
彼女の本来の目的は、タラでした。
正確に言うと、セーブル島周辺のタラがいったいどこを泳ぎ回っているのかを突き止めるための調査です。
とはいえ、海の中を泳ぐ魚を一匹一匹追跡するのは現実的ではありません。
そこで研究チームが使う作戦が、ちょっと変わっています。
タラを食べに来るアザラシのほうに、小さな発信機を取り付けてしまうのです。
アザラシをいわば「生きた観測ロボット」として使い、その行動越しにタラの分布をあぶり出す——そんな調査の最中でした。
ところがのちの取材によれば、作業中、彼女は予想もしていなかった光景を目にしてしまいます。
体長2メートルを超える大人のオスのハイイロアザラシが、離乳したばかりの子アザラシの上に、どっかりとのしかかっていたのです。
オスは子アザラシの首の後ろを大きな犬歯でがっちりと咥えました。
そのまま、ずるずると海へ引きずり込んでいきます。
海に入ったオスは、子アザラシの体から肉を引きちぎりながら、何度も何度も頭を後ろに反らしていました。
これは、ちぎった肉を喉の奥へ送り込むときに見られる、ごくありふれた「食事の動作」です。
つまりオスは、子アザラシをただ攻撃していたのではなく、食べていたのです。
セーブル島では40年近く、その姿がはっきりとは確認されていなかった「コルク抜き殺人鬼」。
サメでもなく、ボートのプロペラでもなく同じハイイロアザラシの仲間——成体のオスでした。
セーブル島で長く確認されてこなかった存在が、ついに姿を現した瞬間でした。
「ジャケット脱がし」——犯行手口の解明

犯人の姿が見えた以上、次に気になるのは「どうやってあんな螺旋の傷ができるのか」です。
研究チームが死体を一つひとつ詳しく調べていくと、犯行の手口が浮かび上がってきました。
大人のオスは、まず子アザラシの口元のあたりに、大きな犬歯で噛みつきそのまま、自分の体をぐるりとひねるように回転させながら、皮膚ごと脂肪の層を引き剥がしていくのです。
イメージとしては、ミカンの皮を、ヘタのところから親指でべりべりと剥いていく場面に近いかもしれません。
噛みついた状態で体をねじるから、傷跡が自然と螺旋を描くわけです。
それだけではありません。
脂肪層には、ヒレの爪でひっかいた痕跡もくっきり残っていました。
アザラシのヒレに爪があると言われてもピンとこないかもしれませんが、ハイイロアザラシのヒレ先には、しっかりとした鋭い爪が並んでいます。
それを使って獲物を押さえ、引き剥がす作業を補助しているのです。
ラングレーさんは取材でこう語っています。
「彼らはヒレを驚くほど器用に使うんです」
さらに衝撃的だったのは、肩甲骨ごと前ヒレが丸ごと引き抜かれている死体が複数見つかったことです。
研究チームはこの状態を、論文の中で「ジャケット」と呼んでいます。
皮膚と脂肪が筒のように剥がされ、まるで上着をするりと脱がされたように見えるからです。
これらの傷の特徴は、2016年にスコットランドで記録されたハイイロアザラシの共食い事例と、多くの点で一致しました。
大西洋をはさんで遠く離れた2つの繁殖地で、犯人の「手口」が同じだったのです。
ここまでで、犯人も手口も明らかになってきました。
しかし本当に衝撃的だったのは、ここから先——被害の全体像が浮かび上がってきたときでした。

