765頭——「氷山の一角」という恐ろしさ

犯人の正体がわかった以上、次に研究チームがやるべきことは一つでした。
被害はいったい、どれくらいの規模なのか。
2023年の繁殖期、研究チームは週に2回のペースで、セーブル島の海岸線およそ20キロをATV(広い砂浜を移動するための四輪バギー)で回り続けました。
「コルク抜き状の傷」を持つ子アザラシの死体を片っ端から見つけ出し、同じ死体を二重にカウントしないよう、一頭ずつ耳にタグを付けていく地道で根気のいる作業です。
調査の結果、確認された死体の数は——765頭。
たった1回の繁殖期、しかも調査できたのはわずか1ヶ月ほどの間、20キロの海岸線だけ、です。
ただし、この765という数字を額面通りに受け取ってはいけません。
これはあくまで、「浜辺の上に残っていて、研究者の目に留まった死体だけ」の数だからです。
砂に埋もれた死体、波に攫われて海に流された死体、カモメに食べ尽くされた死体。
そのどれも、カウントには含まれていません。
しかも調査ができるのは、天気がよく、潮が引いていて、明るい時間帯だけ。
夜間、嵐の日、満潮のとき、波打ち際で何が起きているかは、文字通り誰にもわからないのです。
つまり765という数字は最低ラインであって、実際の犠牲数はこれよりもはるかに多いと考えられています。
翌2024年には、たった1日だけで359頭の死体が見つかった日もありました。
セーブル島を20年以上にわたって調査してきた、カナダ漁業海洋省の海洋生物学者ネル・デン・ヘイヤーさんはこう振り返ります。
「繁殖期には毎日のように現地に出ているのに、私自身は共食いの現場を一度も見たことがありません」
それもそのはずです。
2023年6月に撮影されていたドローン映像を改めて分析したところ、オスが小さなアザラシを食べていたのは、波打ち際や海の中。
しかも映像や写真を比べてみると、撮影された個体はそれぞれ別のオスでした。
つまり「コルク抜き殺人鬼」は、たった一頭の異常な個体だったわけではありません。
複数のオスが、それぞれ人目につかない場所でこの行動を身につけてきた可能性が高そうです。
なぜオスたちは赤ちゃんを食べるのか?

裏ワザを学んでしまった
ここまで読むと、当然こんな疑問が湧いてくるはずです。
なぜ、わざわざ自分たちの仲間を、それも赤ちゃんを食べるのか。
何の「得」があるというのか。
まず知っておいてほしい大前提があります。
ハイイロアザラシのオスは、繁殖期の数週間、基本的に何も食べません。
繁殖期のオスにとって、最優先事項はとにかくメスのそばにいることです。
縄張りを離れて餌を取りに海へ出ようものなら、その隙に別のオスにメスを奪われてしまいます。
だからオスたちは、何週間にもわたって絶食しながら、体に蓄えた脂肪だけを燃料にして、ひたすらメスを守り続けるのです。
これは、相当ハードな戦略です。
体重は日に日に減っていきます。
ところが、ふと周りを見渡すと、そこら中に「脂肪の塊」がゴロゴロしているのです。
離乳したばかりの子アザラシは、母親の超こってりしたミルクで育てられ、体のほぼ半分が脂肪です。
丸々と太っていて、動きは鈍い。
そして何より決定的なのは、子アザラシたちが隣にいる大きなオスをまったく怖がらないことです。
繁殖地には何万頭ものアザラシがひしめき合っているのが日常風景ですから、「隣の大きな個体」を脅威と認識する理由がないのです。
つまり一部のオスにとって、子アザラシは「逃げにくい」「警戒されにくい」「超高カロリー」という、三拍子そろった非常食だった可能性があります。
たとえるなら、フルマラソンの最中に沿道のコンビニにふらりと立ち寄るランナーのようなものかもしれません。
ほとんどの選手はルール通りに走り続けます。
でもごく一部が、あるとき「寄り道」の味を覚えてしまったのです。
ラングレーさんは取材で、こう推測しています。
「まるで、特定の個体がこの行動を学習し、エネルギーを補充する手段として特化しているかのようです」
ここで重要なのは、「学習」という言葉です。
すべてのオスが共食いをするわけではありません。
おそらくごく一部のオスが、あるとき偶然この「裏技」に気づき、それ以来繰り返すようになったのです。
繁殖期のあいだ体力を温存できれば、ライバルより長くメスのそばにいられます。
結果として、より多くの子孫を残せるかもしれません。
残酷な話ですが、進化の論理としては、筋が通ってしまうのです。
種は滅びないのか?——揺らぐ「40年の前提」
ここで当然、湧いてくる疑問があります。
「自分たちの赤ちゃんを食べていたら、いずれ種が滅びるのでは?」
論文はこの点について直接的な結論は出していませんが、現時点での見立てはこうです。
結論から言えば、その心配は今のところなさそうです。
セーブル島では毎年およそ8万頭の赤ちゃんが生まれます。
2023年の調査で確認された死骸が765頭だとすると、これは全体の1%にも満たない数字です。
実際にはもっと多いとしても、この捕食がハイイロアザラシ全体の数を左右しているという証拠は、現時点では見つかっていません。
そもそも「共食い」は、生物界ではそれほど珍しい現象ではないのです。
昆虫、魚、爬虫類、哺乳類まで、分類群を問わず幅広く報告されています。
共通するパターンがあって、個体密度が高すぎるときや、餌が足りないときに起きやすいという傾向です。
セーブル島のハイイロアザラシは、1960年代から2000年代にかけて、指数関数的に数を増やしてきました。
8万頭の赤ちゃんがひしめく砂浜は、率直に言って満員電車のようなものです。
つまり研究者たちの見立てでは、共食いは種の崩壊の兆候ではなく、むしろ個体数が爆発的に増えたことで生じた「副作用」のようなもの。
過密や餌をめぐる状況が、この行動の背景にあるのかもしれません。
——ただし、この研究のインパクトは「共食いの発見」だけにはとどまりません。
ここから、もっと根の深い問題が浮かび上がってきます。
セーブル島にはかつて、ゼニガタアザラシという別種の小型アザラシが大量に暮らしていました。
ところがハイイロアザラシの個体数が急増するにつれ、ゼニガタアザラシは激減していきました。
当時の研究者たちはこの崩壊を「サメによる捕食」と「ハイイロアザラシとの餌の競合」で説明していました。
しかし、今回の発見を踏まえると——。
ゼニガタアザラシ崩壊の問題もまた、ハイイロアザラシによる捕食という文脈で再調査すべきだと、論文は提案しているのです。
論文の中で、研究チームは慎重ながらもはっきりと、こう書いています。
「過去にグリーンランドザメによる捕食とされた事例の多く、あるいはすべてが、成体のオスのハイイロアザラシによるものだった可能性がある」
犯人を取り違えたまま保全計画を立てれば、当然のことながら、的外れな対策になってしまいます。
40年分の「前提」が揺らいだことで、海洋哺乳類の管理のあり方にも、見直しを促す可能性があるのです。

