
眼科医に強い光を当てられたとき、視界のなかに枝分かれした木のような影が浮かんで見えたことはないでしょうか。
実はあれ、自分自身の網膜の血管の影なのです。
普段は意識しませんが、人間の網膜には細い血管が張り巡らされていて、いつも視界の一部をうっすら遮っています。
私たちは「視界のクリアさ」と引き換えに、「酸素の供給」を選んでいるわけです。
ところが、まったく逆の選択をした動物がいます。
鳥です。
光の通り道をできるだけ透明に保つ方向に進化した結果、網膜の内部には酸素を運ぶ血管を持たない形になったのです。
では、その鳥たちはどうやって酸素を網膜に届けているのか——この問いは、17世紀から300年以上にわたって科学者を悩ませてきました。
そしてついに、デンマークのオーフス大学(AU)の研究チームが、答えを見つけました。
研究の詳細は、2026年1月21日付の科学雑誌『Nature』に掲載されています。
目次
- 血管を捨てた鳥と、300年解けなかった謎
- 鳥の網膜は酸素ゼロ――機能するはずがないのに、機能している
- 酸素なしで、どうやって動いているのか
- 鳥の目と恐竜の目
- 人間の医療のヒントになるかもしれない
血管を捨てた鳥と、300年解けなかった謎

視力を取るか、酸素を取るか
網膜は、眼球の奥にある薄いシート状の組織です。
眼に入ってきた光をキャッチして、電気信号に変えて脳に送る——いわば「目のセンサー部品」と思ってもらえれば大丈夫です。
このセンサー部品は、体のなかでもとびきりエネルギーを使う場所です。
同じ重さの脳と比べても2〜3倍ものエネルギーを消費するといわれます。
働きものすぎて、栄養も酸素もたっぷり必要なのです。
だから、人間を含むほとんどの脊椎動物の網膜には、酸素を運ぶための血管が密に張り巡らされています。
けれど、この血管はちょっとした「やっかいもの」でもあるのです。
なぜなら、血管は光の通り道に立ち塞がってしまうから。
せっかく目に届いた光を、血管が散らしてしまうのです。
つまり、ほとんどの動物の網膜では「視界のクリアさ」と「酸素の供給」が、お互いに足を引っ張り合っています。
視界をクリアにしたければ血管を少なくしたい、けれど血管が少ないとエネルギー切れになる——ジレンマです。
多くの動物は、視力を多少犠牲にしてでも酸素を確保する道を選びました。
ところが、鳥はこの取引を蹴ったのです。
タカやワシ、フクロウの目のよさは、みなさんもご存じでしょう。
ハチドリは毎日、何百もの花を空中で見分けながら飛び回ります。
アホウドリは大海原のかすかな魚影を、はるか上空から見つけ出します。
渡り鳥は何千キロも離れた目的地を、地形の目印をたどって正確にたどり着きます。
あの驚異的な視覚を支える土台のひとつが、「血管なしの網膜」だと考えられています。
しかし、当然の疑問が残ります。
血管がないのに、どうやって大量の酸素を網膜に届けているのか?
300年間「たぶんそう」で片づけられていた問題
実は、鳥の眼球の中には、鳥に特有の発達をした奇妙な構造があります。
眼球の奥から内側に向かって、羽根のように突き出した血管の塊。
これを眼櫛(がんしつ、ペクテン)と呼びます。
1600年代から、解剖学者たちはこの不思議な器官の存在を知っていました。
そして自然と、こう考えるようになります。
「網膜に血管がないなら、きっとこの眼櫛が酸素を運んでいるに違いない」
これが、300年以上ものあいだ主流であり続けた説です。
ところが、おかしなことに——誰一人として、この説を直接確かめてはいなかったのです。
なぜか?
確かめる技術がなかったからです。
「生きたままの鳥を、できるだけ普通の状態に保ったまま、眼球のなかにセンサーを通して酸素を測定する」——これは口で言うほど簡単ではありません。
鳥が苦しがって動いたり、麻酔が強すぎて呼吸が乱れたりすれば、出てくる数字は「普通の状態」のものではなくなってしまいます。
そんなわけで、「眼櫛が酸素を運んでいるはず」という仮説だけが、証拠のないまま300年もひとり歩きしていたのです。
鳥の網膜は酸素ゼロ――機能するはずがないのに、機能している

筆頭著者のクリスチャン・ダムスガード博士(オーフス大学)は、2019年に鳥の網膜の不思議な構造を知ったとき、こう感じたといいます。
「酸素がないのに、こんなにエネルギーを使う組織が、どうやって生きているんだろう?」
ダムスガード博士は、まず過去の論文を片っ端から読み込みました。
すると驚いたことに、眼櫛の機能について解剖学的に提案された仮説が約30種類もあることを突き止めたのです。
それだけ多くの説が乱立しているということは、裏を返せば、誰一人として決定打を出せていないということでもあります。
「この構造について、誰も直接的な生理学測定をしていない。じゃあ、我々がやろう」
ここから始まったのが、8年にわたる長い研究です。
新型コロナのパンデミックで研究室に入れない時期も挟みながら、チームはじりじりと前進していきました。
そして2020年、研究チームはようやく決定的な一歩を踏み出します。
獣医の麻酔を専門とする研究者と組んで、ある画期的な技術を確立したのです。
その方法はこうです。
まず、キンカチョウという小さな鳥に麻酔をかけます。
けれど、強すぎる麻酔は呼吸を乱して「普通の状態」を壊してしまうので、慎重に量を調整します。
鳥がリラックスしながら、しかも体内の酸素や二酸化炭素のバランスはちゃんと正常に保たれている——そんな絶妙な状態にもっていくのです。
そこに、髪の毛の数分の一ほどの細さしかない酸素センサーを、ゆっくりと眼球のなかに差し込んでいきます。
センサーを少しずつ進めながら、網膜の表面から奥のほうまで、酸素の濃さを点々と測っていく——気の遠くなるような繊細な作業です。
結果は、誰の予想とも違っていました。
網膜の外側は眼球の外側を取り巻く別の血管網(脈絡膜)から酸素がちゃんと届いており、こちらは普通に酸素呼吸をしていました。
しかし鳥の網膜の内側――視覚を脳へ伝える重要な役割を担う部分には、酸素がまったく存在しなかったのです。
「ほとんどない」ではありません。
「うっすらある」でもありません。
完全にゼロでした。
「衝撃でした」とダムスガード博士は振り返ります。
「網膜の半分が、慢性的な無酸素状態(むさんそじょうたい、専門用語でアノキシア)にあったのです」
この数字がどれほど常識外れか、別の動物と比べてみるとよくわかります。
これまで「温血動物のなかで最も酸素なしに耐えられる動物」として有名だったのは、地下に住むハダカデバネズミでした。
その記録は「最大18分」——脳を含めた全身が、酸素のない空気のもとでもち堪えられる時間です。
しかし、18分というのはあくまで「一時的に耐えられる」という話。
鳥の網膜は、そういうレベルではありません。
通常の生理条件のもとで、ずっと酸素ゼロのまま動き続ける設計になっているのです。
またこれまでの脊椎動物の研究では網膜の中でも特にエネルギー消費が大きいのが内側ほうであることも示されています。
網膜の内側には、神経節細胞・双極細胞・アマクリン細胞といった神経処理を担う細胞群が密集しています。これらは光信号を電気信号に変換し、横方向に統合し、脳へ向けて発火させる仕事をしています。一方、外側の光受容体は「光を受けて電気信号を出す」という一つの役割に特化しています。一般的な脊椎動物の網膜研究では、神経伝達と信号統合を担う層(内側)のほうがエネルギー需要が高いことが知られています。
そしてもうひとつ、決定的な事実がわかりました。
眼櫛から網膜に届けられている酸素は、網膜全体の酸素供給のなかでわずか0.76%にすぎなかったのです。
つまり、内側にはそもそも酸素が届いていないし、外側への酸素供給はほぼ全部が「脈絡膜」の仕事で、眼櫛はほとんど貢献していなかった——300年信じられてきた「眼櫛は酸素の運び屋」という説は、ここで完全に崩れ落ちました。
鳥そのものは、私たちと同じく酸素を吸って生きている動物です。
脳の他の部分も、心臓も筋肉も、ちゃんと酸素を使っています。
しかし「目の奥の特定の場所は、酸素なしで動いていた」わけです。
ですが先に述べたように目は大量のエネルギーを消費する場所です。
そもそも鳥たちは、酸素なしでどうやって、この大食らいの目を動かしているのでしょうか?

