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鳥の網膜は「酸素ゼロ」で動いていた——血管すら排除して何を目指したのか?

鳥の網膜は「酸素ゼロ」で動いていた——血管すら排除して何を目指したのか?

酸素なしで、どうやって動いているのか

酸素なしで、どうやって動いているのか
酸素なしで、どうやって動いているのか / 眼櫛は、鳥の眼球内に突き出した櫛状の血管構造です。マイクロCTで見ると、羽根のように折りたたまれた構造をしており、血液は頸動脈から枝分かれした血管網を通って眼櫛へ届きます。Credit: Damsgaard et al., Nature, 2026

ここから、研究チームは次の謎に挑みます。

酸素を使っていないなら、何を使ってエネルギーを作っているのか?

私たちの細胞は、エネルギー通貨であるATP(アデノシン三リン酸)で動いています。

お金にたとえるなら、ATPは「細胞の生活費を支払う紙幣」のようなものです。

このATPを作るのに、私たちの細胞はブドウ糖を使います。

普通の細胞は、ブドウ糖1個から、酸素を使って約30個のATPを生み出します。

これが 酸素を使う好気呼吸の効率です。

ところが酸素がない状況だと、ブドウ糖1個から取り出せるATPは、たった2個までになります。

これが嫌気性解糖(酸素なしで糖を分解する方法)と呼ばれる、より原始的なエネルギー生産方式です。

その差、実に15倍。

同じ量の原料からエネルギー取り出しという仕事をしているのに、お給料の手取りが急に15分の1になるようなものです。

ちなみにこの効率の差が、地球上で酸素呼吸を行う好気性生物を繁栄させ、酸素なしの代謝だけで暮らす生物を進化の主流から押しのけた一因と考えられています。

次に研究チームは、このような酸素がない状態で網膜を運用するのに、「組織のどの場所で、どの遺伝子が、どれくらい活発か」を一気に見える化できる、いま最先端の手法(空間トランスクリプトミクス)を使い網膜を丸ごと調べました。

この手法では1つや2つではなく、5,000から10,000もの遺伝子を一度に調べて、それぞれの正確な場所をマッピングする。

まるで分子レベルのGPSのようなことができます。

そして見えてきた答えは、はっきりしていました。

酸素のない網膜の内側では、嫌気性解糖に関係する遺伝子が、ほかのエネルギー生産経路を押しのけて激しく働いていたのです。

鳥の網膜は、まさしく「酸素なしの原始的なエネルギー生産」で動いていたわけです。

しかし、ここで新しい疑問が生まれます。

15分の1の効率しかないのに、体のなかで最もエネルギーを使う組織が、どうやって需要を満たしているのでしょうか?

答えはシンプルでした。

ブドウ糖を、大量に流し込んでいたのです。

研究チームが放射性物質で印をつけたブドウ糖を鳥に注射して測定したところ、鳥の網膜は脳の他の部位の2.56倍ものブドウ糖を取り込んでいることがわかりました。

効率が悪いなら、量で補えばいい——鳥の体は、そういう設計を選んでいたわけです。

鳥の眼球のなかは、ゼリー状の透明な液体(硝子体)で満たされています。

鳥の場合、このゼリーが「ブドウ糖を溶かし込んだ栄養スープ」として機能していて、網膜はそのスープに浸かりながら、必要なぶんだけブドウ糖をじわじわと引き出して使っているのです。

眼球まるごとが、網膜のための巨大な栄養タンクになっている、というイメージです。

ただ「それでも結局、すごく無駄な仕組みじゃないか?」と思うかもしれません。

確かに、その通りです。

エネルギー1単位を作るのに何倍ものブドウ糖を使うのですから、家計簿としては大赤字に見えます。

けれど、研究者たちはこの設計を「非効率な妥協」ではなく、鳥が払うべき必然のコストだったと考えています。

その理由が、三つあります。

ひとつめは、鳥は希少な資源を豊富な資源に置き換えただけだということです。

血管のない網膜にとって、酸素は届けるのが極めて難しい希少資源です。

一方、ブドウ糖は血液に常時大量に流れています。

実は鳥の血中ブドウ糖濃度は人間よりずっと高く、キンカチョウのような小型鳥では人間の5倍ほどもあるのです。

届きにくい酸素にこだわるより、ふんだんにあるブドウ糖を惜しまず流し込み、酸素なしでエネルギーに変えたほうが、トータルでは合理的——そういう発想です。

ふたつめは、鳥は老廃物を捨てていないことです。

嫌気性解糖の老廃物として乳酸が生まれますが、これは眼櫛を通って血液に戻され、肝臓や心臓など、ふだん酸素呼吸をしている他の臓器で処理されると考えられます。

つまり網膜は「最初の2個分のATPだけ受け取り、残りの仕上げは他の臓器に丸投げ」しているのです。

個体全体で見れば、エネルギーは無駄になっていません。

そしてみっつめが、最も大事な視点です。

そもそもこの設計は、エネルギー効率を最適化するためのものではありませんでした。

鳥が本当に最大化したかったのは「視力」だったのです。

視力を上げるには、網膜の細胞をぎゅうぎゅうに詰めて、なおかつ光路をクリアに保つ必要がありました。

その結果、網膜は分厚くなり(タカの仲間では630μmに達する例もあります)、血管を通す物理的な余地が消えました。

「酸素を諦めて視力を取る」——この選択を成立させるために、嫌気性解糖はどうしても必要だったのです。

鳥は「効率を犠牲にした」のではなく、「視力を最大化するために網膜細胞の密度を高める方法を選んだ結果、血管が邪魔になり、酸素を使えなくなった」のです。

嫌気性解糖は、その帰結として選ばざるをえなかった解でした。

そう考えると、グルコースの大量消費は無駄遣いではなく、鋭い視力を手に入れるために自然が見つけた、もうひとつの巧妙な抜け道だったとわかります。

鳥の目と恐竜の目

鳥の目と恐竜の目
鳥の目と恐竜の目 / Credit:Canva

働いている遺伝子を調べる

ここで、最初の謎の構造である眼櫛が再び舞台に戻ってきます。

先ほど触れたように、眼櫛はブドウ糖を網膜に届け、乳酸を血液に戻す「中継地点」として働いています。

けれど研究チームは、この役割を「たぶんそうだろう」という機能の予想で終わらせませんでした。

分子レベルで、その証拠を一つずつ突きつけていったのです。

眼櫛の遺伝子発現を詳しく調べると、そこには三つの「働き手」が網膜の何倍も濃く現れていました。

ひとつめは、ブドウ糖を細胞内に運び込むための輸送タンパク質(GLUT1・グルット1と呼ばれます)。

ふたつめは、乳酸を細胞の外へ排出するための輸送タンパク質(MCT1・エムシーティーワン)。

そしてみっつめは、二酸化炭素の処理に関わる酵素(CA4)。

これらが、まるで「物質の通関ゲート」のように、眼櫛の表面に大量に並んでいたのです。

眼櫛は単なる血管の塊ではなく、精密に作り込まれた物資の積み下ろし用ドックだったわけです。

生物の体は、本当に必要な場所には専用の補給線をちゃんと用意しているわけです。

決定的だったのは、血液と眼球内の物質濃度を実際に測った結果でした。

ブドウ糖は、血液で約26 mM(ミリモーラー、濃度の単位)、眼球内で約15 mM。

血液から眼球内へ向かって、はっきりとした「坂道」ができています。

先に紹介したGLUT1という輸送タンパク質が、この坂道に従ってブドウ糖を血液側から眼球側へとせっせと運び込んでいるわけです。

そして先にも述べたように、眼櫛を通って取り込まれたブドウ糖は眼球のなかを満たしているゼリー状の液体(硝子体・しょうしたい)というエネルギータンクに蓄えられ、網膜に供給されます。

乳酸はその逆で、血液で約4 mM、眼球内ではなんと約25 mM。

今度は眼球から血液へと流れ落ちる、別の坂道です。

二酸化炭素も同じく、眼球から血液へ向かって流れていました。

通常、ブドウ糖などの栄養を運び込んだり乳酸や二酸化炭素などの老廃物を運び出すのは「網膜のなかの血管」の役割と思いがちでしたが、鳥の目では、それを網膜の外にある眼櫛が一手に引き受けていたのです。

この仕組みは、いつ生まれたのか

こうして、300年にわたって「酸素の運び屋」と信じられてきた眼櫛は、燃料を運び入れて、老廃物を運び出す「代謝の窓口」として書き換えられることになりました。

共著者のイェンス・ニエンガード博士は、こう言い切ります。

「眼櫛は酸素供給源ではありません。燃料を取り込み、老廃物を排出するための輸送システムなのです」

そしてニエンガード博士は、この発見の重みについて、印象的な言葉も残しています。

「私たちは基本的に、ひとつの砂上の楼閣を崩して、別の砂上の楼閣に置き換えているのです。砂上の楼閣というのは、科学的発見は不変ではないからです。新たな結果が新たな知識を加える。それが科学の進歩の仕方なのです」

自分たちの結論も、いつかまた誰かに塗り替えられるかもしれない——その自覚を含んだ表現です。

ここで研究チームは、もう一歩踏み込みます。

そもそも、この特異な代謝の仕組みは、進化のどの時点で生まれたのか?

答えを探るため、チームは爬虫類との比較を行いました。

トカゲ、カメ、ワニで同じ酸素測定をしてみると——なんと、これらの爬虫類の網膜には、酸素が普通に存在していました。

さらに、爬虫類の眼にも眼櫛とよく似た原型の構造があるのですが、そこにはGLUT1やMCT1の高い発現は見られませんでした。

形だけは似ていても、代謝の窓口にはなっていないということです。

ここから、ある結論が導かれます。

この特殊な仕組みは「鳥類と、ワニの祖先が共通祖先から分かれたあと」、つまり恐竜が地上を歩いていた時代に進化した可能性が高い、ということになるのです。

ダムスガード博士の推測はこうです。

「獣脚類恐竜(ティラノサウルスやヴェロキラプトルを含むグループ)で、獲物を追跡したり、配偶者を見分けたりするための鋭い視力に応える形で、このシステムが進化したのだと思います」

つまり、私たちが今キンカチョウの目で見ているのとよく似た仕組みが、ティラノサウルスの目のなかでも回っていた可能性があるということです。

獲物を見定め、狙いを絞り、追い詰める——その鋭い視覚を、酸素を使わない網膜が静かに支えていたのかもしれません。

「視力のため」が「空を飛ぶため」になった偶然

そして後に、鳥が空を飛ぶようになったとき。

視力のために生まれたこの無酸素耐性が、思いがけない場面で再び役に立つことになります。

空気の薄い高高度では、血液中の酸素も同じように薄くなります。

普通の網膜なら、酸素不足で機能不全に陥ってしまう状況です。

けれど、もともと酸素を使っていない鳥の網膜は、高度が上がっても機能を保ちやすかった、と考えられます。

つまり、鋭い視覚のために生まれた仕組みが、たまたま高高度飛行を可能にする「予期せぬ便利機能」になっていたわけです。

生物学では、これを外適応と呼びます。

羽根がもともと体温調節のために進化したのに、後から飛行に転用されたのと、まったく同じ構造です。

鳥たちは、自分たちが目のために手に入れた仕組みを、たまたま空を渡るための切り札にしていた——進化というのは、こういう想像力に満ちたアレンジが本当に多いものです。

配信元: ナゾロジー

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