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5代目担当ディレクターが回想する90年代のビートルズシーン|ビートルズのことを考えない日は一日もなかった 特別対談 Vol.19 森俊一郎

ポール初来日公演実現までの狂騒の日々

ポール『フラワーズ・イン・ザ・ダート』リリース時の小冊子

竹部:89年はポールの『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のリリースから、いよいよ来日公演の動きが出てきます。

森:この本にも書いているんだけど、『フラワーズ』が出た後のある日の会議で宣伝課長が「ポールの来日がそろそろ止まりそうだ」ってレポートをしたんです。

竹部:「なんで担当の僕に教えてくれないんですか?」と抗議した話ですよね。

森:そうそう。

竹部:『フラワーズ』のタイミングで再び『夜ヒット』に出ましたよね。ロンドンからの中継で「マイ・ブレイヴ・フェイス」と「ディス・ワン」の2曲を歌ったんです。そのときにはもうライブツアーの話をしていて。

森:それが夏前ぐらい。かなり水面下で話は出来上がっていました。そのあたりからフジテレビの事業部に頻繁に出入りして最新情報を取ってくる動きをしていました。

竹部:来日が発表されたのはそれから半年後の12月15日。公演の3か月前で、かなりギリギリのような気がするんですけど。

森:当時はそんなもんでしょうね。

竹部:12月に入ってから、マメにキョードー東京の前に行って動きがないか張っていたんです。そうしたら同じようなことをしている人が何人かいて、そこで知り合いになった人から発表の前日に連絡が来て、「明日発表だからこれからキョードー東京の前に並んだ方がいい」って。すぐに駆けつけて並び始めたんです。着いたのは18時くらいでそこから寒空のなか徹夜で並んで、早朝に整理券を3枚もらうことができた。チケットの発売日は年明けの1月7日。整理券1枚で10枚買えたので30枚買おうと思って、チケット1枚7000円だったから21万円。

森:現金ですよね。

竹部:現金21万円をもってキョードー東京にいきましたよ。

ポール初来日公演日程変更のお知らせ

森:あのあと、日程が変わったじゃないですか。それは影響されました?

竹部:それは払い戻しをしました。

森:あの頃は毎日のように河田町のフジテレビに通い詰めていたんですが、日々何かしらの問題が起きるわけですよ。僕は興行の直接の責任者ではないけれども、それによって情報の出し方が変わるじゃないですか。対応して解決しなきゃいけない。その最大の問題が日程変更でした。突然決まったんです。僕はフジテレビで得た最新情報を宣伝に伝えて「こういう問い合わせが来るかもしれないから、こう説明して」と指示を出したりしていました。どう調整したのか。覚えていないぐらいの悪夢でしたね。キョードーの人たちと夜通し会議をやったことを覚えています。かなり臨場感がありました。

竹部:ファンとしてはポール=フジテレビじゃないですもんね。やっぱり東芝EMIがいちばん情報を握っているんだろうって思いますから。たしか、『夜ヒット』でポール本人が日程変更のお詫びをしましたよね。

森:1日公演をキャンセルするわけですから、それは大変なことでした。あの時代だったからなんとかなったんでしょうけど、今だったら大炎上ですよね。結局、元々初日だった2日がキャンセルになって、3日が初日になった。

竹部:そうでした。ファンとしては過去のいきさつがあるから何があっても来てくれればいいみたいな気持ちでした。あと、忘れられないのは『48HOURS』という番組。アメリカCBSで流したポールの追っかけドキュメントをフジテレビが深夜に字幕付きで放送して、来日を盛り上げていました。あと、忘れてはいけないのが『フラワーズ』の来日記念盤。あれは森さんの仕事ですよね。

森:本にも書いていますが、実現までMPLと厳しいやり取りがあったんですよ。

竹部:あれ以降ああいう形での来日記念盤は普通になりましたが、あの当時はまだありませんでした。

森:最初はポールの音源でビートルズの曲を揃えたCDを来日記念盤として出したいとリクエストしたんです。でもそんなのは向こうもお見通しで、それはダメ。僕もそれまでの経験からOKは出ないだろうなっていうのはわかっていた。で、もう一案バックアップとしてもっていったのが特別感のあるパッケージにすると言うアイデア。次善案を持ってないとまずいと思ったので、当時出たばかりのサザンの『サザンオールスターズ』というアルバムのCDを持参したんです。カブトムシが交尾しているジャケットのやつ。あれの初回盤は腕時計が入っていたんですね。だからパッケージがちょっと分厚くなっている仕様でした。それを、それを見せたら、「これだったらわかる」と。思いのほか感触がよかったので「じゃあそれで進めましょう」ということになり、その次に本体につけるおまけを何にするかということになり、それについて話をしているうちに「未発表曲があるから、それをまとめてもう1枚CDをつけるっていうのはどう?」と提案されてあの内容になったんです。

竹部:それはどういうやり取りだったんですか。メールのない時代に。

森:公演の前にマネージャーのリチャード・オグデンが来日したんです。フジテレビとの打ち合わせで来日したんだと思いますが、レコード会社の人間にも会うというので、プロデュースセンターの仕切りで、ホテルオークラのカメリアで打ち合わせの場が設けられたんです。そのときにMPLから言われたセリフは全部覚えていますよ。

竹部:そんな背景があったんですね。「ラブリエスト・シング」とか、あの来日記念盤で聴いた曲も多かったのですごくうれしかった。『フラワーズ』って数字的にはいかがでしたか。

森:10万の数字には届いていて、その来日記念盤を入れたら、15万まではいっていたはず。

90年の初来日公演からつながる今のポールとビートルズ

東芝EMI制作来日記念小冊子

竹部:それでいよいよポールが来日。2月28日に成田に到着してホテルオークラに入るわけですが、森さんはどんな動きをしていたか覚えていますか。

森:いい質問ですけど、全然覚えていない(笑)。人手不足で現場に駆り出された記憶はあるんですが、どこに行ったのかは記憶にない。スタッフで手分けしていたと思うし。コンサートのクルーは少し前に日本に入って、ドームでステージの組み立てをしていたからそっちに行っていたのかもしれない。

竹部:到着日、僕は成田まで出迎えに行ったんですよ。どうやって情報を入手したのかは覚えていないんですけど、とにかく行かねばと思って車で成田に向かったんです。夕方あたりに着いて、人ごみのあるほうに歩いて行ったらすごいことになっていて。シネクラブの人が「静かにしないとポールは出てきません」と叫んでいて、ポールが出て来るとなったらさらにパニックになって、前方に進もうとすると、前から押されて、後ろからも押し返されてという感じでやっていたらいつの間にか結構前のほうに出ることが出来て、目の前でポールの入国を見ることができたんです。

森:普通のゲートでした?

竹部:はい。その前にヤクルトの選手が出てきたんですよ。ユマキャンプから帰ってきた長嶋一茂を見ました。だからロビーは混乱していましたよ。異様な感じでした。ポールも怖かったんじゃないですかね。その翌日がMZA有明での記者会見なんです。

森:もちろん現場に行っていました。僕はバックステージにいて、ポールはちゃんと時間通りに出てくるかということを見ていました。フジテレビの生中継も入っていましたし。

竹部:よく6時のニュースの中に生中継の記者会見を入れましたよね。

森:出てきていきなり「マッチボックス」。一瞬「これなんだっけ?」というスタッフもけっこういましたよ。

竹部:まさかの「マッチボックス」。僕はMZAまで行ったんですが、一般人ゆえ会場内に入れず。ポールに会うことはできませんでした。森さんは来日中ポールに会う瞬間はあったんですか。

森:来日中はほぼなかったですね。取材の立ち会いぐらいで。

竹部:あのときの取材はNHKの『ニュースセンター9時』と『木根尚登のオールナイトニッポン』くらいだったでしょうか。

森:FENにいたラリー・マクガイヤーって押しの強い人がいて、「取材させろ」って強引な感じで言ってくるんですよ。こちらもいろいろプロモーションをお願いしていたので、むげにもできず、最初は丁寧に対応していたんだけど、あまりにしつこいから「できないから!」って言ったら、独自でルートを見つけたらしく。ある日ポールに取材している現場を見て、唖然としたけど……。日本側の取材は僕らに一任されているはずなんだけど、そこを超えていろんな手を使ったんだと思います。

竹部:そんなことがあったんですね。それで初日を迎えます。3月3日、土曜日でした。

森:公演中、関係者は3塁側のダグアウトで待機しているわけですけど、1曲目の「フィギュア・オブ・エイト」が聞こえたときは本当に感動でした。仕事としてその場にいたのにあの瞬間は涙が出てきました。自分はポールと同じ空間にいるんだよね。あそこにいるのは幻じゃなくて本物のポールなんだよねって思いながら……。

竹部:それまでの苦労もあったし。

森:でも、なにかトラブルがあると、客席の横を走って外野席の下にある楽屋エリアまで移動する。ひたすらバックヤードを走っていましたね。若くなきゃできないですよ。

竹部:連絡するにもまだ携帯が普及していいない時代ですよね。

森:携帯はあるにはありました。かまぼこ型のでっかいやつ。それを借りていたので、一応連絡はつきましたけど、バッテリーの消耗が早いし、電波が悪くてすぐ切れるしで。招聘側のスタッフではないからインカムはもたせてもらえなかったし。

竹部:今では考えられない通信環境ですね。僕も初日、「フィギュア・オブ・エイト」でポールが出てきた瞬間の感動と言ったらなかったです。「フィギュア・オブ・エイト」は今でも特別な1曲です。

森:あえて外タレと言いますけど、当時はまだ外タレの大物アーティストの来日は特別なことで、簡単に見られるものではありませんでした。90年2月にストーンズ、続く3月にポールって、いま振り返ってもすごい時期でしたね。

竹部:ほんと入れ替わりだったんですよね。

森:オークラの部屋も入れ替わりだったようです。

竹部:ポールの追っかけでオークラに行ったら、ストーンズの追っかけの人が残っていて、その人と仲良くなりましたから。

森:ホテルではポールを見られたんですか。

竹部:オークラ別館に特別の出入り口があって、ドームに向かってリムジンに乗り込むときに、ポールはちゃんと手振ってくれるんですよ。これからドーム行くよって感じで。それが毎回。最初の頃はそんなに人はいなかったのもよかったです。今のペニンシュラとかはすごいことになるじゃないですか。当時はまだ牧歌的な感じでした。徐々に人が増えていったんですけど、僕は最終日にまた成田に見送りに行ったんですよ。そこはあまり人がいなくて至近距離でポールとリンダを見られた。これも感動でした。とにかく、僕の人生において、あの来日は大事件でした。

森:それはわかります。

竹部:成田からの帰り道、カーステで「ラブエスト・シングス」を聞いたとき、自然と涙が出ましたよ。なぜ90年のポール来日にこだわるのかといいますと、この成功があったからポールは今も歌っているし、ビートルズは今でも現役のような影響力があるんじゃないかと思うんです。ビートルズ史においてすごく重要なイベントだったんじゃないかと。

森:おっしゃる通りで、その前後にいろんなことが起こっているじゃないですか。

竹部:87年の初CD化から始まって、89年のリンゴ、90年のポール、91年のジョージの来日があり。

配信元: Dig-it

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