私自身がそうでしたが、透析が必要といわれると、誰もが戸惑います。なかには、「透析になったら人生終わりだ」と考える人もいらっしゃるでしょう。しかし、通院しながら元気に仕事を続けることは十分できますし、夢を持ち、その実現のためにはつらつと生きることも可能なのです。【体験談】宿野部武志(一般社団法人ピーペック代表理事・CEO)

プロフィール

宿野部武志(しゅくのべ・たけし)

1968年生まれ 。3歳のときに慢性腎炎に罹患。18歳より慢性腎不全により透析導入。現在透析歴36年め。2008年、腎臓がんにより左腎臓を摘出。身体障がい者。社会福祉士。14年勤めたソニー株式会社退職後、社会福祉士の資格を取得、その後 2010年にペイシェントフッド起業。2019年、一般社団法人ピーペックを起業。2020年、ペイシェントフッドをピーペックに吸収合併。当事者としての経験と想いを、当事者と医療の現場に還元すべく、講演・研修事業、アドバイザリーをはじめ、幅広い活動を行い、医療者、医療系企業、患者会、病気をもつ個人など多くのコネクションを持つ。腎臓病透析患者向けWeb サイト 「じんラボ」 所長。

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仕事が透析をがんばるモチベーションになった

私は3歳のとき、慢性腎炎と診断され、「将来、透析が必要になるかもしれない」と宣告されました。実際に私が第1回めの透析を受けることになったのは、大学受験が終わった後の、1987年2月9日のこと。体調が悪くなり、緊急入院することになりました。

小中高と、体育の時間はすべて見学でしたが、自覚症状は全くありませんでした。当時はインターネットなどもありませんし、透析について知るのが怖かったこともあり、深く知ろうとはしてこなかったのです。

このため、透析を「点滴のようなものだろう」と軽く考えていましたから、現実の透析を受けたときはショックでした。

ただ「受け入れていくほかない」という覚悟は、意外に早く定まり、透析と向き合う日々が始まりました。透析しながら大学に通い、就職もしました。

私自身がそうでしたが、透析が必要といわれると、誰もが戸惑います。なかには、「透析になったら人生終わりだ」と考える人もいらっしゃるでしょう。ベッドに週3回、4~5時間拘束されるのですから、制約があるのは事実です。

しかし、通院しながら元気に仕事を続けることは十分できますし、夢を持ち、その実現のためにはつらつと生きることも可能なのです。

私は大学卒業後、透析を受けながら、メーカーの人事部で働き始めました。体調をくずせば周囲に迷惑をかけるので、「無理せず、病気に甘えず」をモットーに勤務することを心がけました。

 
当初、同僚は私の病気のことを多少は知っている程度でしたが、「私にはこういう配慮が必要です」と、しゃくし定規に説明することはしませんでした。

さらに詳しいことは、できるだけ自然な会話のなかで知ってもらうようにしたのです。

例えば飲み会の席などで、「これは食べても大丈夫? ビールは飲めるの?」などと、自分の病気に触れられたときなどがよい機会。「飲み過ぎなければОKだし、食べ物は選んで食べるので問題ないです」などと、病気や透析について聞かれたときに、詳しく話すようにしました。

また、夜間透析を受けるため、週に2回は午後5時に退社しなければなりません。そのことも、無理なく職場で受け入れてもらうために、日ごろからのコミュニケーションを大事にしていました。

一方的に助けてもらうのではなく、私も日ごろ誰かが困っていれば率先して手伝い、助け合いの関係性の一つとして、透析で早く帰ることも理解してもらうよう努めたのです。

私自身は、障害者雇用の枠で入社しましたが、「透析があるから病気に配慮して仕事量を減らしてもらおう」とは考えませんでした。透析があるにせよ、同期と同じ仕事量をこなし、同期に負けないような成果を上げ、昇進することを目指しました。

仕事をがんばることは私のやりがいとなり、それが透析を続けるモチベーションにもなったのです。

そして人事部で、ご自身やご家族が病気を抱えている人や、介護で休職する人など、さまざまな事情を抱える社員の相談を数多く受けているうちに、「こうした人たちをサポートする仕事ができないか」という思いが芽生えてきました。

私自身、物心ついてからずっと病気を抱えて生きてきましたから、患者としての自分の経験を生かし、もっと積極的に病気を抱えた人たちをサポートしていくことが自分の生きる道だと確信したのです。

そこで38歳のとき退職し、新しい道を歩み始めました。