ビリギャルのその後──ただいま、34歳でアメリカ名門大学院に留学中〔前〕

金髪にミニスカの高2のギャルは、全国模試の偏差値30。勉強には見向きもせず学校でも問題児だった“ビリギャル”が、塾の先生との出会いがきっかけで猛勉強の末、慶應義塾大学に現役合格を果たす──。こんな実話が書籍となって大ヒット、有村架純主演で映画化もされたことで、一躍有名になったのが、この話のモデルとなった小林さやかさんだ。
奇跡的な大学現役合格ストーリーを生み出した彼女はその後、どのような人生を歩んでいるのか。取材を申し込んだところ、なんと今、ニューヨークに暮らし、コロンビア大学の大学院に通っているという。34歳で初の海外留学、しかもアメリカ最難関校に挑戦となると、受験勉強は? 仕事は? 結婚は……??? 大学入学後の10代後半から34歳のいまに至るまでの道のりを語ったインタビューを、3回にわたってお届けする。

ウェディング会社のモーレツ社員

入社した会社ではウェディングプランナーとして、たくさんの結婚式をプランニングしました。私は打ち合わせで新郎新婦とお話をするのが楽しくて、それが式の当日に形になるのを見るのが本当に大好きでした。ずっと一緒に準備してきたおふたりが式当日を迎えた時、私がチャペルも宴会場も扉を開けるんですよ、「行ってらっしゃいませ」って。その瞬間が大好きでした。


イメージ写真(写真AC)

ただ、働き方はきつかったですね。結婚式は冬以外は繁忙期。だいたい月に8件から10件の式を担当していました。式の多くが土日祝に行われますし、1日に2件あることも少なくありません。ウェディングプランナーは式や披露宴の間も新郎新婦を先導することをはじめ、最後まで滞りなく進めるため、自分が担当する新郎新婦には必ず付いていなければいけないんです。だから休日はすべて仕事になる。

では平日はというと、朝から晩まで数ヵ月先の挙式予定の人たちの打ち合わせが入っているんです。結婚式の打ち合わせは最低でも3、4回は来ていただく必要があるので、平日の多くの時間が打ち合わせに割かれていました。それに加えて、直近の結婚式の引き出物を発注したり、招待客に食物アレルギーの方がいるというような重要な情報を関係部署に伝えたり、サプライズ演出を考えたり……。

朝の7、8時に会社に来て、深夜2時まで仕事して会社のカギを締めて帰るというような働き方をしていたら、いつも何かに追いかけられているような感じになり、3年くらいで燃え尽きて会社を辞めることになりました。

いま思えば、大好きな仕事だけに、私自身が折り合いをつけなければいけなかったと思います。働き方だけではなく、自分の立ち位置が、お客様側になりすぎてもいました。私には常に新郎新婦の願いを叶えたいという思いがあって、お客様が希望することはできる限り実現してあげたいと思っていました。

でも、そうすると料金がどんどん上がってしまう。そこはお客様に理解してもらわなければならないのですが、当時の私はどうやったら料金を下げられるか必死に考えて、自分からお客様に、このメニューは不要だよって言って削ったり、会社にもサービスできないかとかけあったりして。でも、上司からは「うちは会社だからね」とたしなめられたりするのがどうしても納得できなかった。……本当に若造だったなぁと思いますね。

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ベンチャー企業に転職して気づいたこと

じつはそのあと、違う業界で少し働いたものの、やっぱりサービス業に戻りたい、ウェディングプランナーをやりたいと思って、ウェディングのベンチャー企業に就職したんですね。社員5名の小さな会社で、式場は持たずにいろいろなレストランや空いている式場を提供してもらって、そこで結婚式をプロデュースする会社です。自分たちの式場を持たないぶん費用はかなり抑えることができて、お客様には好評でした。また少人数の会社ゆえ、私の裁量で決められることも多く、自由度が大きいのもよかったです。

一方で、プランナーとして感じたのは、「チーム」で動けないことの大変さです。前の会社は式場を持っていたので、サービスのスタッフもキッチンのスタッフも「チーム」として動くことができていました。しかし、新しい会社では毎回会場が変わり、スタッフは初対面の方ばかりなので、私がそれまでプロデューサーとしてやってきていたような結婚式ができない。そういう物足りなさ、やりにくさはすごくありました。


イメージ写真(写真AC)

前の会社では「何でこんなに高い料金を取るんだ⁉」と文句を言っていたけれど、チームで動いていたことの意味とともに、あの料金にはそれなりの価値があったんだなということが、このときによくわかりました。